教区の歴史

教区の歴史

年間第22主日 着座記念ミサ説教

2007年09月02日

2007年9月2日 10:00~ 東京カテドラル聖マリア大聖堂にて

 

 

今日の福音からわたしたちは何を学ぶことができるでしょうか?

イエスは言われます。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」また言われます。「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。」恥をかきたくなければまずへりくだれ、そうすれば人が持ち上げてくれるだろうという意味でしょうか?それでは、面目を施すための打算の謙遜になってしまいます。宴会にはお返しできない人を招きなさいという話も、復活のときの報いを期待してのことならやはり打算が働いていることになります。たとえ話の解釈は難しいです(2001年に浦和の司教になる前の黙想でこの箇所を黙想しました)。 

「へりくだる」ということは打算ではないし、世渡りのための知恵でもありません。お返しできない人を招くのは、よいことをしてあげるという傲慢な態度であってはならないし、一方的に自分でこれがその人にはよいと決め付けて押し付けることでもないはずです。同じルカ福音書の14章には大宴会のたとえが出てきます(15-24節)。 ある家の主人が大宴会を催し、大勢の人を招いたが、招かれた者はそれぞれ理由を付けて出席を断ったので主人は怒った・・・という内容です。 

「へりくだる」とは神と人の前に自分の至らなさ、惨めさを認めることです。自分の真実を認め、いかに自分が他の人によって支えられ、生かされ、助けられているかを認めることです。また自分の存在と言動が他の人を傷つけたり、苦しめたり、迷惑をかけていることもあることを認めることです。自分に何かよいことがあり、よいことができたとすれば、すべてのよいことは神から出ているのですから誇るとしたら神においてしか誇れないことを悟ることです。マリアの賛歌(マグニフィカート)は謙遜なおとめマリアが主なる神を讃える祈りであり、教会は毎日『教会の祈り』(晩の祈り)で唱えるよう勧めています。使徒ヨハネは繰り返し「神は愛です」と教えています。神の愛は一方的なものではありません。神は愛が受け入れられることを望んでいます。神の愛は宴会への招きです。神は応答を求めています。 

わたしは自分自身を見つめ・・・心も体もいやしを必要としている自分であると認めます。どうか、マリアの取次ぎで司教と司祭の心と体の健康を祈ってください。わたしは自分を見つめるとき、弱く罪深い自分であると思います。そのわたしを神が招いてくださる!神の愛はゆるす愛、罪人を受け入れる愛です。神は愛を強制しません。愛に対し愛で応えることを求めているのです。ゆるすとは共に苦しむことです。この愛は十字架によって示されました。わたしたちも自分の十字架を背負わなければなりません。しかし、このわたしの十字架はイエスが共に担ってくださるイエスのくびきではないでしょうか。わたしたちは神の愛を知り、信じました。神の愛に応えましょう。愛は相互に与え合い、育て合うものです。 

今日わたしは「パリューム」を着用しています。これは首輪?のようなもので(と会衆に、カズラの上、首の周りに着けた祭服を示す)これは教皇様より2000年にいただいた管区大司教の任務を表す象徴で、いわばわたしの「くびき」です。2000年9月3日、わたくしはここ東京カテドラルで大司教に就任しました。そのとき次のように申し上げました。「わたしたちの教会がすべての人に開かれた共同体、とくに弱い立場に置かれている人々、圧迫されている貧しい人々にとって、安らぎ、慰め、励まし、力、希望、救いとなる共同体として成長するよう、力を尽くします。」この決心をどのくらい実行できたでしょうか・・・?いま実感しているのは、ほかならぬ自分自身がいやし、慰め、励まし、希望を必要としている貧しい僕であるということです。 

皆様の支え、ご理解、お祈りを切にお願いする次第です。