教区の歴史

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サレジオ会司祭叙階式訓話

2003年09月13日

2003年9月13日、下井草教会にて

朗読箇所
イザヤ 61:1-3,10-11
エフェソ 4:1-7,11-13
ヨハネ福音書 15:9-17

 

ヨハネ・ボスコ 前田 崇史(たかし)さん
ミカエル 浦田 慎二郎さん

本日の福音のなかで主イエスは言われます。「互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(ヨハネ15:12)。また次のようにも言われました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを皆が知るようになる」(ヨハネ13:34-36)。

皆さん、わたしたち教会の使命は福音をのべつたえること、福音宣教あるいは福音化ということです。福音化はすべての信者の任務ですが、とくに司教・司祭にとって大切な任務であります。

ところで福音化とは何かと言えば、まず神の愛を伝えることだ、とわたくしは言いたいと思います。神の愛を生き、伝えることこそ福音化の働きです。

もしわたしたち教会共同体が神の愛を生きていなければどんなに雄弁な説教をすることができたとしてもその言葉は空しく消えてしまい、人々の胸には響きません。それどころか反発、軽蔑をもって報われてしまうことでしょう。

大切なのはわたしたち自身がこのキリストの言葉をどのように生きているのか、ということです。

使徒ヨハネは言います。「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することが出来ません」(ヨハネの手紙4:20)。時として兄弟を愛するとは難しいことです。わたしたちの自然の傾向は、自分によくしてくれる人には善くしてあげられるが自分に迷惑を及ぼす人、自分のことを悪し様に言う人によくしてあげることに困難を覚えます。兄弟を愛するとは自然にできることではないのです。そのためにはまず自分自身を受け入れ自分自身を大切にする、ということが必要です。兄弟を愛するためにまず自分を愛さなければなりません。そして自分を愛するためには、神の愛を信じなければなりません。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちに罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛するものたち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」(ヨハネの手紙4:10-11)。兄弟を愛する恵みと力は神の愛、聖霊によって与えられます。誰も自分が持っていないものを人に与えることは出来ません。まずわたしたちは神の愛が豊かに注がれていることをしっかりと自覚し受け止め、そうすることによって自分自身を養い育てていかなければならないと思います。司祭叙階式はそのためにもっとも大切な恵みのときであります。今日、叙階を受けるお二人だけでなくこの聖堂に集うすべての人は、司祭職の尊さと重さをしっかりと肝に銘じ、心に刻み付けたいと思います。

 

前田さんと浦田さん、

あなたがたはサレジオ会の司祭として叙階されます。言うまでもないことですがサレジオ会の使徒職のなかで青少年の教育が大きな比重を占めています。 ところで昨今、日本の社会で青少年による犯罪、あるいは青少年に対する犯罪が頻発していることをわたしたちは怒りと悲しみを込めて思い起こします。いったいこれはどうしたことでしょうか。何か大切なことが壊れている、失われている、機能していない、という感じです。いのちの尊さ、いのちへのいとおしさという、人間にとって基本的な感覚が麻痺しているように思われます。自分自身の存在といのちへの畏敬の念が失われている。自分を大切に出来ない人がどうして人のいのちを大切にすることができるでしょうか。いのちの尊さを青少年に教えるのはわたしたち大人の役割です。青少年のなかにいのちの尊さの感覚を育てるのが今の世界と社会の課題だと思います。戦争によって簡単に多くのいのちが奪われているのが世界の現実であり、年間3万人もの人が自らのいのちを絶っているのが日本の社会の現実です。この現実の中で、生きる意味、いのちの尊さを訴え、互いにいたわりあい助け合う社会を建設するために、教会を召されています。

サレジオ会の司祭に叙階されるお2人が、これからどこで働かれるにせよ、生命の尊厳をおしてあかしするという使命に奉仕してくださるよう切に望みお願いいたします。