教区の歴史

教区の歴史

2002年 聖金曜日・主の受難説教

2002年03月29日

2002年3月29日、八王子・クララ会にて

 

今日は特別に主イエス・キリストのご受難を深く黙想するべき日です。今日の典礼は豊かな内容ですから長い説教は不要でしょう。でも折角の機会ですから、今日に典礼について二、三の点だけを申し上げます。

今年の受難の主日には、マタイによる福音が読まれました。聖金曜日には毎年、ヨハネの福音が読まれます。マタイの福音では、人間イエスの苦しみと群集の悪意、移り気が目立ちましたが、ヨハネは、毅然としたイエスの姿を伝えているように思われます。

「わたしの国は、この世には属していない」「成し遂げられた」。

このようなイエスのことばには父である神の みこころを行おうとする強い意志が感じられます。イエスを取り巻く人々、弟子たち、総督ピラト、祭司、兵士、群集は混沌と憎悪、懐疑、狂気に取り付かれたかのようです。ただイエス一人、その渦の中心にいて冷静を保っています。この情景をみるだけでも、イエスはまことに神の子である、という印象を持つことできたことでしょう。

今日の典礼のなかには盛式共同祈願があります。

第六の祈りは、ユダヤ教の人々への祈りです。長い間、キリスト教徒はユダヤ人への偏見にとらわれてきました。主イエスを十字架につけたのはユダヤ人であった、という理由によります。最近、教皇庁はこの誤りを認め、ユダヤ人にだけイエス殺害の責任を帰することが誤りである、と表明しました。それではイエスを十字架に付けたのは誰でしょうか?それはわたしたち罪びとです。「十字架につけろ」と叫んだのは当時のユダヤ人の群集ですが、実のところ、イエスはすべての人の罪のあがないのために十字架にかかりました。イエスを十字架につけたのは、時代と場所を超えたすべての罪びとです。

第八の祈りは、神を信じない人々のための祈りです。日本では神を信じる人は多くはありません。できるだけ多くの人にわたしたちの信仰を伝えたいと願っています。そのためにはわたしたち自身の回心と刷新が必要です。

わたしたちは今日、つぎのように祈ります。

「人々が多くの困難の中にもあなたの慈しみを知り、神を信じる人々のよい行いを見て、唯一のまことの神、人類の父であるあなたを信じる喜びに達することができますように」。

東京教区もいまもっと新しくなりたいと切に願っています。

 

教区の刷新のためにシスター方のお祈りをお願いします。