教区の歴史

教区の歴史

復活節第4主日(世界召命祈願の日)説教

2012年04月29日

2012年4月29日 東京カテドラル関口教会にて

ご存じのように日本では司祭・修道者の召命が減少しています。ヨーロッパ・北アメリカの先進国でも同じように召命は減少しています。しかし、全世界的に見れば司祭・修道者の召命が減少しているとは言えません。アジアやアフリカでは司祭になりたい、修道者になりたいという若者がおおぜいいて、神学生は増えています。

実は日本もかつて司祭・修道者の召命が非常に多い国でした。50-60年前のことです。そのことは東京教区のペトロの家や比較的大きな女子修道院に行けばよく感じられます。今80-90歳代の司祭・修道者は大勢います。日本の司祭・修道者の召命は1960年代から減っていきましたが、最近では、長崎の召命の減少が目立ちます。長い迫害・禁教の歴史を生き抜いてきたキリシタンの末裔たちは信仰に燃え、明治以降、多くの司祭・修道者を生み出してきました。しかし、最近、その数は激減しています。

近年、召命の多い国として思い浮かぶのは、アジアで言えば韓国、ヨーロッパで言えばポーランドでしょう。どちらも1970-80年代の独裁政治の時代に、カトリック教会は民主化運動を支え、人間を守り尊重する姿勢を貫き、人々の心に大きな影響力を持ちました。そこでは多くの若者が神と人々に奉仕する道として司祭・修道者の道を選びました。今もこれらの国では召命が多くあります。と同時に言わなければならないことは、韓国やポーランドでも一時期ほどには召命が多くなくなってきているということです。

これらのことをわたしたちはどう考えたらよいのでしょうか。

貧しさの中で、迫害や人権抑圧の中で、人々は必死に神を求め、救いを求め、その求める心にカトリック教会が本気で答えたとき、その教会に人生をかけようとする若者がおおぜい出てくるということではないでしょうか。逆に、自由と経済的な豊かさの中で教会は、本当に生き生きとした活動とメッセージを示し続けることができていないということではないでしょうか。召命ということを考えるときに本当に問われるのは、今この時代、この社会の中で、わたしたちがどのようにキリスト教信仰を生きているか、カトリック信仰を生きているかということではないかと思います。

教皇ベネディクト16世は、今年10月11日から来年の11月24日までを「信仰年」とすると発表しました。それは、ヨーロッパの教会の危機感の表れでしょう。本当にわたしたちの国を含めて、経済的に発展した国で、信仰は危機に瀕していると言わざるをえません。

キリスト教信仰が直面している現代の状況はいくつかのことによって特徴づけられます。

1つは「情報の氾濫」ということ。かつて子どもたちは両親や祖父母、それに学校の先生の教えによって大切なことを学んできました。教会では司祭やシスターが子どもたちを教えてきました。しかし、今の子どもたちはそれ以外の膨大な情報に晒されています。テレビなどのマスメディアやインターネットの情報は、親や教会から受け取る情報の何百倍もあり、カトリック信仰のメッセージを相対的なものにしてしまっています。

もう1つは「消費社会」。「いかに美しく、快適で、便利なものを手に入れるか、そこに幸せがある」、この価値観はものすごい力を持っています。わたしたちキリスト信者もそこから逃れることはできないように感じられます。その中で、どうやってキリスト者として生きる生き方の魅力、司祭・修道者の生き方の魅力を伝えることができるか?大問題ですね。

さらに言えば「お金の力」。「結局、世界を動かしているのはお金の力なのだ、誰もそれに逆らうことはできない」。そう感じさせられる世界があります。そこで神の力、信仰の力を見いだすのは難しいのです。

どうにもならないような大きな力がわたしたちの信仰の力をそぎ落としていくような時代なのではないでしょうか。だれもそれに抵抗できない?

昨年3月11日、東日本大震災が起こりました。1万9千人の人がいのちを失い、何十万という人が家族を失い、わが家を失い、仕事を失い、大切な人間関係を失いました。その中で必死に生きている人々がいます。わたしたち日本のカトリック教会は何とか被災者の方々の痛みや苦しみを分かち合いながら、一緒に歩んでいきたいと願っています。震災と原発事故はわたしたちの考えと生き方、さらに信仰のあり方を根本から問い直すものだったのではないかとわたしは思っています。

人間にとって生きるとはどういうことなのか。死の現実に向き合いながら、それでもいのちを大切にして生きるとはどういうことなのか。何がギリギリのところで人間を支えるものなのか、何が人間にとって本当に大切なことなのか。どこにわたしたちの本物の希望があるのか。無限に経済を発展させ、無限に豊かさを追求し、無限にエネルギーを消費し、無限に寿命を延ばしていくというようなこととは違う、もっと大切な生き方とは何なのか。それが本当に問われたと思いますし、今も問われ続けているのだと思います。

目先の損得に振り回されて、福島の現実から目をそむけ、原発を再稼働させようという政治や経済界の力が働いています。その中で人と人とが分断されていきます。被災地とそうでない地方が分断され、隣り合う市町村同士が分断されていきます。本当にそんな目先の利害ではなく、神の前に謙虚になって、何を大切して生きるべきなのか、今問われていますし、その中で信仰の持つ意味が、キリスト信者・教会の役割が大切だと思っています。

わたしは先週5日間、福島に行ってきました。いろいろな人と会い、いろいろな現実を見ました。被災地の現実は厳しいし、特に原発事故の影響をまともに受けている福島の現実は厳しいです。きのうわたしたちが参加した仮設住宅での活動に、地元の県立高校の生徒や福島市のカトリック学校の学生がボランティアとして参加していました。学校の休みを使って、仮設住宅を訪問し、被災したお年寄りを少しでも励ましたいと行動している彼らの姿の中に、希望を見いだすことができるように感じました。

多くの若者たちが人間の現実、特に厳しい状況に置かれた人間の現実を見つめ、その中で自分の人生の意味と召命を見いだしていけますように、祈りたいと思います。わたしたちの教会が、若者たちにそのような出会いと体験の場を提供できるようになりますように。そういう中から神と人々のために自分の生涯をささげる若者がおおぜい現れることを願いながら、今日のこのミサをささげたいと思います。