教区の歴史

教区の歴史

年間第24主日(マタイ18・21-35)一粒会総会でのミサの説教

2011年09月11日

2011年9月11日 麹町教会にて

今日の福音はゆるしがテーマです。主の祈りの中の「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」という願いの解説のようなたとえ話です。たとえ話の伝えたいことははっきりしています。わたしたちがゆるし合うべきなのはそもそも神が計り知れない大きなゆるしをわたしたちに与えてくださっているからであり、その神のゆるしに気づいたら、人間同士はゆるしあうのが当然だ、ということです。主の祈りの、あの部分を唱えるときにいつも思い浮かべたいたとえ話です。

本当に大きな神の愛が先にわたしたち注がれている。わたしたちはそう信じています。そしてだからこそ悲惨な出来事にあうとき、どう受け止めたらよいか、本当に戸惑います。大きな自然災害や事故、さらに悲惨なテロにあったとき「なぜ?」とわたしたちは問います。しかし、答はありません。キリスト教は理不尽な出来事を合理的に説明することはできません。

ただ、わたしたちが知っているのは、イエスご自身がいわれのない罪を着せられ、不当な苦しみを受け、それに耐え、まったく見捨てられて死んでいったあの十字架の姿です。そしてだから「なぜ?」というわたしたちの問いはあのイエスの十字架の問いにつながっていると信じるのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」

本当にイエスはわたしたちの苦しみをともに担い、わたしたちの死をともに死んでくださった。これがわたしたちキリスト者の信仰です。そしてイエスの苦しみがただの苦しみで終わらなかったように、わたしたちの苦しみもただの苦しみで終わらない。イエスの死が死で終わらなかったように、わたしたちの死も決して死で終わるものではない。

あらゆる苦しみを超えて、どんな悲惨な死をも超えて、神は決してわたしたちを見捨てない。いのちの主である神はわたしたちに永遠の命の喜びをもたらしてくださる。それがわたしたちの信仰です。だからわたしたちは希望を失いません。だからわたしたちはどんなときも、信仰と希望を愛をもって生きようとします。今ここでわたしたちにできることを精一杯していこうとするのです。



仙台教区は震災直後の3月16日に仙台教区サポートセンターを立ち上げ、被災者のための活動を始めました。教会の復興のための活動ではなく、教会が主体となって一般の被災者のために働いていこうとしました。この半年で、サポートセンターが運営している4つのボランティアベースには延べ2,500人ものボランティアが働いてきました。仙台教区サポートセンターは被災現場では「カリタス」の名前で活動していますが、この「カリタス」の名前は被災地の中で知られ、信頼されるようになってきました。もう1つ、仙台教区では郡山、福島、仙台、盛岡を結ぶ内陸部の教会(大きな都市の大きな教会)が、被災地である太平洋沿岸の教会を支援するという方針も立てています。

この2つの点は、今日付で出された仙台の平賀司教様のメッセージの中でも確認されています。これまでの半年を第1期、そしてこれから1年半を第2期として、この活動を続けていくとのことです。仙台教区サポートセンターは釜石、南三陸、石巻、塩釜を中心に活動してきました。また早い時期から、宮古には札幌教区から、いわきには埼玉教区からのボランティアも入って活動しています。今後はそれ以外の地域でも、日本全国の教会から支援をしていこうということになり、東京教会管区は宮城県南部から福島県での活動を模索することになりました。



福島第一原発から北へ24.5キロ、南相馬市にカトリック原町教会があります。地震で教会の建物はかなりの被害を受けました。ここは緊急時避難準備区域というところに指定されていて、特に若い人や子どもは放射線の影響が心配なため、町を出た人が少なくありません。教会の幼稚園は未だに再開の目処が立たないでいます。信徒もずいぶん減ってしまいました。もともと司祭は住んでいなくて、仙台から通ってきた司祭がミサをしていました。震災以前は日曜日に20人ぐらい集まっていたのですが、今は10人ぐらい。その原町教会に仙台教区は一人の司祭を派遣することにしました。梅津神父様です。仙台教区の司教総代理で、小教区を担当していなかったのでこの神父が原町に住むことになったようです。それは被災者とともに教会があることのしるしなのです。

わたしはその話を聞いて、ダミアン神父のことを思い出しました。昔見た「ダミアン神父」という芝居の中で心に残ったシーンがあります。ハワイのモロカイ島に隔離されていたハンセン病者に出会ったダミアンは、その島に住むことを希望しますが、上長はそれに反対します。その時、ダミアンはこう言うのです。「神があの人たちを見捨てていないしるしとして、一人の神父があそこに住むことがどうしても必要なんです」。その確信を持って、ダミアンはモロカイ島に移り住み、みずからもハンセン病になり、そこで生涯を終えました。梅津神父さんは、そんな悲壮な感じではなくて、いつもニコニコしている穏やかな神父様ですが、心の内にはそういう覚悟を秘めておられると思います。原発30キロ圏内になぜか一つの小さなカトリック教会があり、そこに今だからこそ神父がいなければならない。それは神がこの地の人々を決して見捨てていないあかしなのだ・・・。

司祭とはそういうものだとわたしは思います。普段はそんなに特別な形ではないかもしれない。でもいろいろな苦しみ、不安を抱えている人、病気の人、虐げられている人、孤独な人、家族を失った人・・・。そういう人に寄り添って生き、「それでも神はあなたを決して見捨てない、あなたとともに神がいてくださる」自分の存在をとおしてそのことを伝えるのが司祭、特に教区司祭の使命だと思います。一粒会の皆さん、そういう司祭がたくさん生まれるようにこれからもお祈りください。そしてそういう司祭職を目指す神学生を支えてください。



さて、わたしは7月に梅津神父様と原町教会でお会いしました。原町教会の周辺を案内してくださり、いろいろお話をうかがいました。「東京の人間にできることはあるでしょうか」とお尋ねすると「ミサに来てください」という答えでした。若い人が流出していく中での取り残された感じ。本当にここに住んでいていいのか、という不安。その中で一緒にいる、寄り添うことが司祭の使命、教会の使命だと感じておられるようでした。そしてもし皆さんもできればミサに来て一緒に祈ってほしい、ひとときでもここに一緒にいてほしい、そういう意味に聞こえました。

現実に行こうと思ったら結構大変です。新幹線で福島まで行って、そこからバスだと2時間以上かかります。行くのが無理でも、どうか心で寄り添っていただければと思います。福島県の農産物を買うという支援の仕方もあります。東京に避難してきている人もたいへんな状況があります。どうか心で寄り添って、祈りの中でつながっていけますように。そういう思いで今日のミサをささげましょう。