教区の歴史

教区の歴史

使徒ヨハネ粕谷甲一師(1923.11.6~2011.2.9)通夜

2011年02月15日

2011年2月15日 東京カテドラル聖マリア大聖堂にて

マタイ25・31-40

粕谷神父様は3年程前、中目黒の神の御摂理修道女会の中にあった家から、このカテドラル構内の司祭の家に移って来られました。わたしの記憶では、ベトナムを訪問していたときに天候不順のために体調を崩され、帰ってきてから桜町病院で療養されていました。その後に退院するにあたって、修道院の離れの部屋での一人暮らしは無理だろうということで、教区の司祭の家にお迎えすることになったのだと思います。わたしは桜町まで粕谷神父さんを迎えに行きました。車の中でいろいろとお話ししたのが心に残っています。

何度かおっしゃっていたのが「ぼくは教区のためにあまり働いていないから、これから教区のお世話になるのは申し訳ない」という言葉でした。確かにそうかもしれません。粕谷神父様の経歴を見れば分かるとおり、その活動はカトリック教会の中での活動というよりも、青年海外協力体や国際救援センターなどの活動のほうが目立っています。と同時に、晩年、近くに住む機会があった者としては、本当に司祭としての生き方を大切にされているのを感じました。あの車の中でも「司祭の家ではミサはどうなっているのか」としきりに気にされていました。ペトロの家ができてそこに移られても、最後まで、入院するまで他の神父さんたちと共同司式でミサをささげていらっしゃいました。教会を越えた世界の中での活動と、キリスト者としての、司祭としての活動は粕谷神父さんの中で深く結びついていたと思います。

その意味で、粕谷神父さんを思い出すときに、大切なのはマザー・テレサとの出会いだと思います。神父様は1976年、シンガポールの世界宗教者平和会議で、マザー・テレサと出会い、そこでのマザーの挨拶の言葉を聞きました。粕谷神父さんは強い印象を受けたようで、それをいろいろなところに書き記しています。それがあの有名な2つの聖体拝領の話です。

「私は毎朝、祭壇の上から小さなパンのかけらの主をいただいています。もう一つは、町の巷の中でいただいています。先日、町を歩いているとドブに誰かが落ちていた。引き揚げてみるとおばあちゃんで、体はネズミにかじられて、ウジがわいていた。意識がなかった。それを体をきれいに拭いてあげた。そしたらおばあちゃんがパッと目を開いて、〝マザーありがとう〟といって息を引き取りました。その顔は、それはそれはきれいでした。あのおばあちゃんの体は、私にとって御聖体でした。なぜかと言うと私にとっては、イエス様のことばはすべて神秘。〝私は飢えた人、凍えた人の中にいる〟とおっしゃったように、あのおばあちゃんの中に主がいらっしゃった。そのおばあちゃんを天に見送った時に、私の中に主がきてくださったのです」。

海外青年協力体の活動、国際救援センターでのインドシナ難民定住のための活動、そして晩年まで続けられたベトナムでの活動。その活動を支えていたのはこの2つの聖体拝領だったのでしょう。パンのかたちでイエスをいただくことと、貧しい人との出会いの中でイエスをいただくこと。本当にそれが粕谷神父様を生かしていたものだと思います。

実は亡くなられる何日か前に病院をお訪ねしたとき、もう、ものを飲み込むことがおできにならなくて、水を飲むこともできなくて、聖体のイエス、パンの形のイエスをお授けすることができませんでした。先週の水曜日の朝、突然息を引き取ったという病院からの連絡をいただいて、「あの時、聖体拝領できていたら・・・」と悔やむ思いがわたしの中に起こりました。しかし、亡くなってから次第に、粕谷神父様はずっと聖体の秘跡をとおして、出会った貧しい人々をとおしていつもイエスをいただいていたのだと感じられるようになりました。そして最後は、ご自分の病気の苦しみをとおして、その中で十字架のイエスに結ばれていたのだと確信するように今はなりました。

先ほどマタイ福音書25章の有名な言葉を読みました。

「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」

もうすでに粕谷神父さんは、栄光のイエスに出会い、あのイエスの言葉を聞いているでしょう。粕谷神父さんの生涯の歩みは、この言葉を文字通り真剣に深く受け取ろうとした歩みだったと思います。どうか粕谷神父様が神のみ国の喜びに満たされ、そこで安らかにいこうことができますように心を合わせて祈りましょう。

「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」

わたしたちキリスト者皆、この言葉をよく知っています。わたしたち人間にとって、神の目から見てもっとも大切なことは、この言葉に示されているということを知っています。わたしたちも日々、貧しい人の中におられるキリストとの出会いに招かれているのです。

でもどれほど深く真剣にこのキリストとの出会いを生きているでしょうか。きょう、粕谷神父さんを偲んで通夜の祈りをささげながら、わたしたちはわたしたち一人一人がこの言葉を新たな思いで受け止めなおし、この言葉をより忠実に、誠実に生きることができますように、天の国におられる粕谷神父さんとともに祈りたいと思います。