大司教
週刊大司教第二百七十五回:諸聖人の主日
2026年11月02日

11月1日は諸聖人の祝日ですが、今年は主日にあたるため、諸聖人の主日となりました。
メッセージでも触れていますが、11月は死者の月であり、わたし達に先立って御父のもとへと旅立った兄弟姉妹の永遠の安息のために祈りを捧げるときであります。11月2日は死者の日ですが、東京教区では今年は明日1日の午後、東京カテドラル聖マリア大聖堂、府中墓地、そして五日市霊園のそれぞれで、午後2時から合同追悼ミサを行いました。なおカテドラルのミサは私が司式しました。
あっという間に年末が近づいてきました。いろいろとやり残したことが山積みとなっている中で、クリスマスが近づきつつあります。なお11月15日は毎年の「ミャンマーデー」です。今年もミャンマーから司教様をお迎えして、15日の午前10時の関口教会の主日ミサを私とミャンマーの司教様で司式することになっています。未だに政情が落ち着かず、いのちが暴力で脅かされているミャンマーのために、お祈りをお願い致します。
教皇様は報道されているとおり、手術は成功し、医療チームによればこれ以上の治療は必要ないとのことで、一安心いたしました。教皇様は、11月6日から17日にかけて、南米のウルグアイ、アルゼンチン、ペルーの3カ国へ、予定通り司牧訪問に出かけられます。どうぞ、教皇様の健康が守られるようにお祈りをお願い致します。この司牧訪問直後に、あらためて教皇様に直接お会いする機会がある予定ですので、そのときにまた改めて、日本の教会においても教皇様の健康のためにお祈りしていることをお伝えしようと思います。

10月16日午後、徳田教会でベタニア修道女会の誓願式が行われ、シスターフランシスカ齋藤さんが終生誓願を宣立されました。

また福音史家聖ヨハネ布教修道会では、10月24日午後、誓願式ミサが、同会が経営母体である桜町病院に隣接する小金井教会で行われました。当日は二人が終生誓願、二人が初誓願、四人が有期誓願更新、そして二人が誓願の金祝をお祝いしました。このうち五名がベトナム出身、お一人が韓国出身で、両国から親族や司祭がおいでになり、豊かなミサとなりました。みなさん、おめでとうございます。後に続くシスター志願者が多く誕生するように一緒に祈りましょう。
以下、10月31日午後6時配信、週刊大司教第275回、諸聖人の主日のメッセージです。
諸聖人の主日
週刊大司教第275回
2026年11月01日前晩
教会は、11月1日を諸聖人の祭日、そして11月2日を死者の日と定め、さらに11月全体を「死者の月」としています。11月1日には、すべての殉教者と証聖者を記念し、11月2日にはわたしたちに先立って御父のもとへと旅立ったすべての人を思い起こし、祈りをささげます。
イエスをキリストと信じる私たちは、「イエスを信じ、その御体を食べ、御血を飲む人々を世の終わりに復活させてくださる」のだと確信し、永遠のいのちに生きる大きな希望を持ちながら、この人生を歩んでいます。
親しい人とのこの世での別れは悲しいことではありますが、教会は同時に、永遠のいのちへの希望を高く掲げることを止めることはありません。葬儀ミサで唱えられる叙唱にも、「信じる者にとって、死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活を終わった後も、天に永遠のすみかが備えられています」と私たちの信仰における希望が記されています。
カトリック教会のカテキズムには、「わたしたちは生者と死者を問わず万人と連帯関係にあり、その連帯関係は聖徒の交わりを土台としているのです」と記されています。地上の旅路を歩む民と天上の栄光にあずかる人たちとには連帯関係があり、共に教会を作り上げています。それを第二バチカン公会議の教会憲章は、「目に見える集団と霊的共同体、地上の教会と天上の善に飾られた教会は、二つのものとして考えられるべきではなく、人間的要素と神的要素を併せ持つ複雑な一つの実在を形成している」と記しています。わたしたちは、信仰における先達と共に、キリストの唯一の体において一致して、連帯関係のうちに教会共同体を作り上げています。教会共同体はこの世における目に見える組織だけのことではなく、信仰の先達との霊的な絆のうちに、普遍的に存在している実体であります。
教皇ベネディクト十六世は回勅「希望による救い」において、「人間は単なる経済条件の生産物では」ないからこそ、「有利な経済条件を作り出すことによって、外部から人間を救うことはできない(21)」と指摘します。その上で教皇は、「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと。これこそが人間であることの根本的な構成要素です。このことを放棄するなら、人は自分自身を滅ぼす(39)」と述べています。
今日私たちが記念するすべての聖人や殉教者たちは、その人生における言葉と行いを通じて、また他者とのかかわりを通じて、この世の命を生き抜いた姿を通じて、まさしく「人間であることの根本的な構成要素」を明確にあかしした存在であり、教会の模範です。
心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」
すべてをなげうってただ神のことだけを求め生きる人たちを、イエスは幸いだと呼ばれました。
わたしたちは、信仰に生きていると言いながら、何に全身全霊をささげているでしょうか。
わたしたちは、共同体において一致していると言いながら、何をあかししているのでしょうか。
わたしたちは、聖体の秘跡に養われていながら、何を告げしらせているのでしょうか。
わたしたちは、「幸いである」と言われるにふさわしい信仰を生きているでしょうか。