大司教

週刊大司教第二百六十四回:年間第十五主日

2026年07月13日

年間第15主日です。この主日、わたしは、生まれ故郷の岩手県宮古市の教会で、主日ミサを捧げました。

わたしが生まれた70年近く前、両親は教会とその幼稚園で働いていたため、わたしは宮古教会で生まれ、そこに住み、人生の最初の数年を教会で過ごしていました。

そのときの主任司祭は、ベトレヘム外国宣教会のスイス人の宣教師です。その宣教師と毎日の生活を共にし、毎日のように朝のミサに与ったことが、その後のわたしの人生に大きな影響を与えたと思います。司祭になることだけにとどまらず、文化や言葉の壁を越えて福音を宣教する宣教師としての人生です。

その意味もあって、毎年一度は、感謝を持って生まれ故郷の宮古教会で、感謝のミサを捧げさせていただいています。

以下、11日午後6時配信、週刊大司教第264回、年間第15主日のメッセージです。

年間第15主日
週刊大司教第264回
2026年7月12日前晩

今の時代、言葉はどれほどの重さを持っていると考えられているのでしょうか。インターネットが発達し、人工知能による情報提供も普通のことになった今、音としてこの世界に生み出される言葉の何パーセントが、心に裏打ちされた重みを持った言葉なのでしょうか。バーチャルな世界で言葉がもてあそばれ、ポジティブな意味でもネガティブな意味でも、重みを失って漂っているとき、わたし達は、キリスト者の信仰にとって、言葉が重要であることを思い起こしたいと思います。

神のことばは、常にわたしたちとともにいてくださる神の現存です。なぜならば、世の終わりまでわたしたちとともにいてくださると約束された主イエスこそは、「人となられた神の言」であるからに他なりません。ヨハネ福音の冒頭は、「初めに言があった。言は神であった」と始まります。わたし達の信仰は、言葉による信仰です。

ヨハネ福音に、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった(ヨハネ一章10・11節)」と記されているとおり、神はご自分のことばを種のように蒔き続けられているにもかかわらず、多くの人の心の内に豊かな実りを生み出すには至っていません。

わたしたちは、神が蒔き続けておられる言葉の種が豊かに実を結ぶように、土壌を良いものに改良していくように努めなくてはなりません。種がまかれるためには、良い実を結ぶようにと、事前にしておかなくてはならない準備があります。

今必要な準備は、軽く漂う言葉に席巻されている世界に対して、言葉には顔があり心の重みを担っているのだということを証しのうちに伝えていくことであろうと思います。現実の世界の中での具体的な人とのかかわりにおいて、わたしたち自身の言葉と行いこそは、神の言葉の種が蒔かれる土壌を良いものとしていくための、もっとも力のある道具であります。

神の言葉が受け入れられた世界こそは、神が望まれた世界の実現です。神の言葉が豊かに実るとき、そこには神御自身からの賜物であるいのちを徹底的に守り抜く世界が実現し、神の似姿としての人間の尊厳が尊重されているはずです。いのちに対して暴力を振るう世界が、神のことばの種が豊かな実りを生み出す土壌となることはあり得ません。

インターネットが普及している現代社会にあってわたしたちは、ネット上に発信されていく様々な言葉でさえも、顔と心に裏打ちされた重さを持った言葉としていく努力が必要です。心配りも何もなく発信されていく攻撃的な言葉が、神の言葉が芽吹く土壌を生み出すことはありません。

時にキリスト者と言いながら、他者のいのちや尊厳に対して暴力的で攻撃的になる、きわめて利己的な主張や愛に欠ける主張を目にするとき、そのキリスト者は一体どんな土壌を神のことばの種のために備えようとされているのかと悲しく思います。

わたしたちの語る言葉こそが、神のことばの種を蒔く土壌を準備するためにあるのだと心に留め、神の言葉の種が豊に実を結ぶように、務めていきたいと思います。