大司教
週刊大司教第二百五十回:受難の主日
2026年03月30日
週刊大司教の250回目にあたる本日は、受難の主日(枝の主日)であり、聖週間が始まります。
すでに東京大司教区のホームページでも公表されているとおり、聖週間中の東京カテドラル聖マリア大聖堂での典礼は、インターネットで配信されますし、後刻にご覧頂くことも可能です。
なお、聖土曜日については、「週刊大司教」の配信はお休みです。
以下、28日午後6時配信、週刊大司教第250回、受難の主日のメッセージです。
受難の主日
週刊大司教第250回
2026年03月29日前晩
わたしたちは受難の主日から始まる聖週間において、十字架へと歩みを進められた主の心に思いを馳せ、主とともに歩み続けます。受難の主日では、まず冒頭に主イエスのエルサレム入城が朗読され、そしてミサでは主の受難が朗読されます。今週の週刊大司教では、冒頭のエルサレム入城を朗読いたしました。
エルサレムに入城するイエスを、人々は熱狂のうちに迎えます。しかし支配者からの解放をもたらす政治的なリーダーの誕生を待ちわびている民衆の願望は、熱狂を生み出し、熱狂は、心の目をふさいでしまいます。謙遜さのうちにロバに乗って人々とともに入場するイエスの姿を見つめる群衆は、その心の目が熱狂に支配され、イエスが生涯をかけて伝えた神の福音の真髄が、ロバに乗った謙遜な姿に凝縮されていることに気がつきません。心は自分たちの勝手な願望に支配されているからです。
イエスを熱狂のうちに迎えた群衆は、その数日後に、今度はイエスを十字架につけて殺すようにと要求する群衆へと変身していきます。熱狂は冷めやすいのです。扇動された熱狂に支配された人々の心の目には、十字架を背負い罵られながら歩みを進めるイエスの姿に、イエスが生涯をかけて伝えた神の福音の神髄が凝縮されていることに気がつきません。わたしたちに必要なのは、自分たちの願望が生み出す熱狂から距離を置き、心を落ち着かせ、現実のうちに時のしるしを探ることであります。
時として熱狂は、暴力的な負の力を生み出します。熱狂が生み出す暴力は、わたしたちのいのちに対して牙をむくことがあります。信仰は興奮の産物ではありません。信仰は静かな出会いの中で見いだされるものです。熱狂した心が見ようともしない現実のうちに、主はおられます。
便利になった世界でインターネットによる情報の拡散は、時にイエスをエルサレムに迎え入れた群衆を支配したような熱狂で、世界を包み込む力を持っています。善と悪の対立のような単純な構造は現実にはあり得ないにもかかわらず、熱狂による興奮は判断を単純化した裁きへとわたしたちを誘います。その裁きがさらに生み出す熱狂は、自分勝手なイメージを増幅し、そのイメージに支配される心の目は、そこに生身の人間の存在があることを、賜物であるいのちを生きている神から愛される人間の存在があることを、人の心があることを、見えなくしてしまいます。時としてその熱狂は、イエスを十字架の死に追いやったように、暴力的な負の力を持って賜物であるいのちを破滅へと追いやることさえあります。
教皇様は今年の四旬節メッセージで、「断食」」について語る中で、こう呼びかけます。
「隣人を攻撃し、傷つけることばを控えることです。ことばの武装を取り除くことから始めようではありませんか。辛辣なことば、性急な判断、その場におらず弁解できない人の悪口をいうこと、中傷することをやめようではありませんか。むしろ、ことばを慎み、優しさをはぐくむことを学ぶために努力しようではありませんか。家庭の中で、友人の間で、職場で、ソーシャルメディアにおいて、政治的な議論において、メディアにおいて、キリスト教共同体において。そうすれば、多くの憎しみのことばは希望と平和のことばに代わることでしょう」。
主は、わたしたちの目の前に静かに佇まれ、わたしたちが熱狂から解放され、「多くの憎しみのことば」を「希望と平和のことば」に変えられるのを待っておられます。いったいわたしたちは何を見ているのでしょうか。