大司教
週刊大司教第二百四十五回:四旬節第一主日
2026年02月23日

四旬節の第一主日です。この日曜日あたりから、今年の復活祭に洗礼を予定している小教区では、洗礼志願者のための典礼が始められるところも少なくないと思います。洗礼の準備をしておられる皆様の上に、神様の導きと護りがあるようにお祈りいたします。
司教総会は終了しました。みなさまのお祈りに感謝いたします。今回は、初日の月曜日に議事を取り上げず、祈りと黙想の日としました。ベテラン宣教師のお話を伺い(ご本人は遺言ですと言われていました)、グループで分かち合い、聖体の前で祈りを捧げる一時を過ごしました。総会について、中央協議会でいつものようにビデオをあげていますので、ご覧ください。
以下、21日午後6時配信、週刊大司教第245回、四旬節第一主日のメッセージです。
四旬節第一主日
週刊大司教第245回
2026年02月22日前晩
神はわたしたちの想像の産物ではありません。わたしたちこそが神によっていのちを与えられた者であり、だからこそわたしたちが神はどのような存在なのかを決めつけることは、不遜です。
マタイ福音は主イエスが、その公生活を始めるにあたり40日の試練を受けられたと記しています。この試練の中で、イエスは三つの大きな誘惑を受けたと、福音に記されています。
まず空腹を覚えた時に、石をパンにせよとの誘惑。それは人間の本能的な欲望や安楽・安定ににとどまることへの内向きな願望を表しています。その人生の中心にあるのはわたしであって、神ではありません。「神の子なら」という悪魔のことばが、それを象徴します。自分を中心にものを考えてしまうわたしたちは、不遜にも、神とはこういう存在であるべきだと勝手に決めつけて、自らの願望を実現するために神を利用しようとします。イエスはそれに対して、人が生きることの中心には、自分の願望ではなく神のことばがあることを示されます。神のことばに生きるのであれば、わたしたちの心は、自分ではなく隣人へと向けられます。
次に神に挑戦せよとの誘惑。それは自分こそがこの世界の支配者であるという謙遜さを欠いた思い上がりの欲望です。わたしたちは時として自分たちがこの世界の命運を握っているという思い上がりにとらわれ、神の被造物を好き勝手に浪費し傷つけてきました。
そして三つ目はすべての権力と繁栄を手にすることへの誘惑。この被造界の支配者は自分たち人間であるという思い上がりであります。
これら三つの誘惑は、ちょうど教皇フランシスコが「ラウダート・シ」に、「わたしたちが図々しくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めるのを拒むことによって、創造主と人類と全被造界の間の調和が乱されました(66)」と記されたことと、密接に繋がっています。教皇フランシスコは、人間の根本的なかかわり、すなわち「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわりによって、人間の生が成り立っている」と記し、その上で、「命に関わるこの三つのかかわりは、外面的にもわたしたちの内側でも、引き裂かれてしまいました。この断裂が罪です」と指摘します。ちょうど最初の誘惑が隣人とのかかわり、二つ目の誘惑が神とのかかわり、三つ目の誘惑が全被造界とのかかわりです。この三つの誘惑はわたしたちの現実の中に常にあり、わたしたちはその誘惑の中で、神と隣人と大地とのかかわりを断絶させ、罪を重ねています。
四旬節は、わたしたちが信仰の原点を見つめ直し、いつくしみに満ちあふれた御父の懐にあらためて抱かれようと心を委ねる、回心の時です。四旬節は、あふれんばかりの神の愛、すなわち、人類の罪を贖ってくださった主ご自身の愛の行動を思い起こし、それによって永遠のいのちへと招かれていることを心に刻み、その愛の中で生きる誓いを新たにするときです。
そのために教会の伝統は、四旬節において「祈りと節制と愛の業」という三点をもって、信仰を見つめ直すよう呼びかけています。また四旬節の献金は、教会共同体の愛の業の目に見える記しでもあります。この四十日の間、互いに支え合う心をもって、愛の業の内に歩み続けましょう。