大司教
週刊大司教第二百四十二回:年間第四主日
2026年02月02日

あっという間に2026年も一ヶ月が終わり、2月になりました。
この数日間、大雪の被害に遭われている地域のみなさまには、心からお見舞い申し上げます。
メッセージでも触れていますが、2月の最初の数日には、日本の殉教者の記念日が二つ設けられています。2月1日の日曜日、その日本26聖人殉教者を保護の聖人とする東京都墨田区の本所教会では、長年の伝統である殉教祭が行われます。今年もわたしが日曜日10時の本所教会のミサを司式させていただきました。
またご存じのように、福者ユスト高山右近に関しては列聖調査が進められています。日本でも大勢の方が右近の取り次ぎを祈っておられますが、帰天の地フィリピンのマニラにも力強く列聖のための運動を続けておられる方々が多数おられます。東京カテドラル聖マリア大聖堂の左手後部に安置されている高山右近像は、そのマニラのグループの方からの寄贈です。
以下、1月31日午後6時配信の週刊大司教第242回、年間第四主日のメッセージです。
年間第四主日A
週刊大司教第242回
2026年02月01日前晩
2月の最初の週には、日本の教会の殉教者の記念日が二つ並んでもうけられています。2月3日は福者ユスト高山右近、そして2月5日が聖パウロ三木と同志殉教者、いわゆる日本26聖人殉教者の記念日です。
福者ユスト高山右近は、生涯をかけて信仰を守りぬいたが故に、すべてを失い、生まれた国を追われ、家族とともにマニラに追放処分となりました。1614年末のことです。右近は、その直後に熱病にかかり、翌1615年2月3日に、マニラで亡くなられたと伝えられています。信仰のために、すべてを奪われ、それでも喜びと希望のうちに信仰を全うした生き方が、殉教者としての生き方であると教会は認めました。
右近を追放しようと決めた秀吉の気持ちを和らげるため対立を避けなさいという周囲の忠告に耳を貸さず、右近は「イエス・キリストの騎士」である名誉を守り通そうとされ、説得する周囲に対して、「神に関することは、一点たりとも曲げるべきではない」と述べたと伝えられています。
「神に関することは、一点たりとも曲げるべきではない」という覚悟を、現代社会に生きるわたしたちは、どのように考えるのでしょうか。
1597年2月5日、長崎の西坂の地で、信仰を守り抜き、そのいのちを神にささげた26人は、「人間は一体何のために生きるのか」という問いかけに対する答えを、その生涯の言葉と行いを通じて、多くの人に対して証しいたしました。
26人の聖なる殉教者たちは、信仰に生きるということは、そのいのちを失うこと以上に価値のあることなのだという確信を、殉教において証しいたしました。殉教に価値があるのは、勇気を持って死んでいったからだけではなく、勇気を持って最後まで生き抜いた、その生きる姿にこそ、具体的なあかしによる福音宣教としての意味があるのだと思います。
26人の聖なる殉教者たちは、「人間はいったい何のために生きるのか」という問いに、明確な答えを残して、そのいのちを生き抜かれました。聖なる殉教者たちは、現代を生きるわたしたちに、人生においてどのように福音を生き抜くのか、その模範を残されました。
マタイによる福音は、山上の説教の冒頭部分に記されたいわゆる「真福八端」を伝えています。イエスが指摘する幸福の八つの状態、すなわち「心の貧しい人」、「悲しむ人」、「柔和な人」、「義に飢え渇く人」、「あわれみ深い人」、「心の清い人」、「平和を実現する人」、「義のために迫害される人」の八つのタイプの幸福は、そうだと納得できるものもあれば、社会の常識から言えば決してそうとも言えない状態もあります。
しかしこの八つの真の幸福を実際に体現されたのは、主イエスご自身であることに気がつかさせられます。八つの幸福は、まさしく主イエスの生きる姿勢そのものであります。神の定められた幸福の道は、人間の常識が考える幸福とは異なっていることを、このイエスのことばが教えています。
わたしたちの信仰の先達である多くの殉教者たちは、本当の価値が、すなわち何のために生きるのかという問いに対する答えが、この世の考える幸福ではなく、神の生き方にこそあることを、見事に証明する人生を全うされました。わたしたちもその姿勢にならって、信仰をあかしする道を歩みたいと思います。