大司教

週刊大司教第二百三十四回:待降節第一主日

2025年12月01日

典礼の暦は新しく始まり、本日はその最初、待降節第一主日です。

降誕祭に向けた霊的な準備が始まりました。町中にはすでにクリスマスをイメージした飾りがあったり、クリスマス商戦が始まっていたり、きれいなイルミネーションが暗闇を照らしています。その本当の意味、特に、絶望にとらわれて暗闇を歩んでいるわたしたちに、神の御子の受肉と誕生という希望の光が差し込んだ出来事の意味を、少しでも伝えることができればと思います。

今週末、11月27日から30日まで、アジア司教協議会連盟(FABC)、同福音宣教部門、そして教皇庁宣教事業が共催で、マレーシアのペナンにおいてアジア宣教大会が開催されています。同地の宗教的文化的背景を考慮に入れて、「The Great Pilgrimage of Hope(希望の大巡礼)」という名称で呼ばれています。


アジアでの宣教大会は、2006年のチェンマイに続いて二回目となります。日本からも、森山、ガクタン、中野、酒井司教を始め全国教区からの20名ほどの代表団が参加しています。わたしも、他の予定との関連で全日程に参加することができませんが、金曜と土曜の二日間は、FABCの事務局側として現地へ飛び、参加してきます。アジアの教会の様々な人との出会いを経験した日本からの参加者の声を待ちたいと思います。

以下、11月29日午後6時配信、週刊大司教第324回、待降節第一主日のメッセージです。

待降節第一主日
週刊大司教第234回
2025年11月30日全般

待降節が始まりました。典礼の暦は新しい年の始まりです。今日から、主の降誕・クリスマスに向けて、わたし達の信仰における準備が始まります。四週間もうけられている待降節は、前半と後半で焦点が異なります。前半は主に世の終わりに焦点があてられ、後半は救い主の受肉と誕生に焦点をあてています。

しかしその全期間を通じて、中心に置かれているメッセージは、本日の福音に記されている、「目を覚ましていなさい」、「用意していなさい」という主の言葉にあります。いつ起こるのか分からない出来事に備えて、目を覚まし準備を整えておくことの重要性が繰り返されます。

まさしく待降節という言葉自体が表しているように、わたし達は待っています。パウロがコリント人への手紙に記したように、わたし達は「マラナタ」、主よ来てくださいと祈っています。救い主の再臨を待ち望んでいます。

当然ですが、待つことには様々な態度が思い起こされます。いつだろうとそわそわしていることも待つことですが、なにもせずに眠りこけていたとしても、それは待っていることに変わりはありません。しかしイエスの指摘される「待つ」姿勢は、「目を覚ましている」ことと、「準備整えている」という二つの行動を必要とします。ただ立ち尽くすのではなく、行動して待つのです。

わたしたちは、主の時がいつであるのかを知らないのですから、ただ立ち尽くして待つのではなく、その時のしるしをよく識別できるように、常に準備をするために行動するものでありたいと思います。その準備は、主に従って生きることなのですから、自分自身のためではなく、主が愛されているすべての人のためであります。主ご自身の模範に倣って、愛といつくしみに積極的に生き行動するものでありたいと思います。助けを必要とする人々のところへ出向いていこうとする、常に積極的な待つ姿勢をあかしする教会共同体でありたいと思います。

ただ立ち止まって待っているだけでなく、行動する神の民は、主に立ち返る者でもあります。いま一年間わたし達が過ごしている聖年が終わりに近づきました。聖年は祈るときでもありますが、巡礼を促しているように、行動するときでもあります。積極的に待つ姿勢をあかしするときです。

昨年の降誕祭に教皇フランシスコは、次のように述べておられました。

「イエスは門です。・・・すべての人が主に立ち帰ることができるようにするためです。わたしたちは皆、失われた羊のようであり、牧者を必要としていて、御父の家に帰るための門を必要としているのです。イエスは牧者であり、門です」

その上で教皇は、「わたしたちは時として、・・・門をくぐる勇気がないのです。わたしたちの生き方を見つめ直すことが求められるからです。門を通るには、前に一歩を踏み出すという犠牲が求められます。・・・平和の君である御子の大きく開かれた両腕に自分自身を委ねるためです。聖年の始めのこのクリスマス、わたしは一人ひとりの人、すべての民族と国家に呼びかけます。その扉をくぐる勇気を持って、希望の巡礼者となり、武器の轟音を黙らせ、分裂を克服しましょう」

世界は希望を必要としています。その希望は、ただ立ち尽くしていたのでは生まれません。主の再臨を待ち望むわたし達は、その主が求められている神の平和が確立されるために、積極的に行動しながら、主を待ち望む者でありたいと思います。

マラナタ。主よ来てください。