大司教

週刊大司教第二百三十回:死者の日

2025年11月04日

11月1日は諸聖人の祝日、2日は死者の日とされています。

この時期の全免償についてメッセージでも触れています。今年は聖年ですので、次の文書も参照ください。「教皇フランシスコにより発表された2025年の通常聖年の間に与えられる免償に関する教令」で、リンク先は中央協議会のホームページです。次のように記されています。

「2025年の通常聖年の期間中、すでに与えられた他の免償は有効であり続けます。心から痛悔し、罪の傾きから離れ(『免償の手引き』[Enchiridion Indulgentiarum, IV ed., norm. 20, § 1]参照)、愛の精神に動かされ、聖年の間、ゆるしの秘跡によって清められ、聖体に力づけられ、教皇の意向に従って祈る信者は、教会の宝から全免償が与えられ、その罪の赦免とゆるしが与えられます。これは代願のかたちで、煉獄の霊魂に対して与えられることも可能です」

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第230回、死者の日のメッセージ原稿です。

死者の日主日
週刊大司教第230回
2025年11月2日前晩

11月1日は諸聖人の祝日であり、翌2日は死者の日とされています。教会の伝統は、11月1日から8日までの間、全免償を得ることで、それを煉獄の霊魂に譲ることが出来るとも定めています。この期間、ゆるしの秘跡を受け、どこであっても聖堂を敬虔に訪問し、聖体をいただき、墓所で祈り、主の祈りと信仰宣言を唱えて全免償をいただき、それを煉獄の死者に譲ることができます。

もちろん今年は聖年ですから、教皇庁内赦院の定めによって、「ゆるしの秘跡によって清められ、聖体に力づけられ、教皇の意向に従って祈る信者は、教会の宝から全免償が与えられ」、それを煉獄の霊魂のために与えることは年間を通じて可能とされています。

教会のカテキズムには、聖人たちとの交わりについて次のように記されています。

「わたしたちが天の住人の記念を尊敬するのは、単に彼らの模範のためばかりではなく、それ以上に、全教会の一致が兄弟的愛の実践をとおして霊において固められるからです。・・・諸聖人との交わりは、わたしたちをキリストに結び合わせるのであって、全ての恩恵と神の民自身の生命は泉あるいは頭からのようにキリストから流れ出ます(957)」

また死者への祈りついて、カテキズムはこう記します。

「・・・死者のためのわたしたちの祈りは、死者を助けるだけでなく、死者がわたしたちのために執り成すのを有効にすることが出来るのです(958)」

11月1日と2日の記念は二つでひとつの記念であり、教会は地上の教会と天上の教会の交わりのうちに存在していることを、わたしたちに思い起こさせてくれます。

イエスをキリストと信じる私たちは、イエスに結ばれることで、「イエスを信じ、その御体を食べ、御血を飲む人々を世の終わりに復活させてくださる」のだと確信し、永遠のいのちに生きる大きな希望を持ちながら、この人生を歩んでいます。わたし達の人生の歩みは、この世のいのちだけで終わるものではなく、永遠の中でわたし達は生かされています。

わたしたちは、信仰宣言で「聖徒の交わり」を信じると宣言します。そもそも教会共同体は「聖徒の交わり」であります。教会共同体は孤立のうちに閉じこもる排他的集団ではなく、いのちを生かすために互いに支えあう連帯の共同体です。シノドス的教会です。ともに歩む教会、互いに耳を傾けあう教会、互いに支え合う教会は、すなわちそれこそが「交わりの教会」そのものであります。

私たちは地上の教会において、御聖体を通じて一致し、一つの体を形作っており、互いに与えられた賜物を生きることによって、主ご自身の体である教会共同体全体を生かす分かち合いにおける交わりに生きています。同時に教会は、「地上で旅する者、自分の清めを受けている死者、また天国の至福に与っている者たちが、皆ともに一つの教会を構成している」とカテキズムに記しています。

シノドス的な教会は、天上の教会との交わりの中で、霊的に支え合う共同体です。ですから、例えば祈りの側面がかけていて、この世における助け合いの集団となってしまっては、本来の意味とは異なるものとなってしまいます。シノドス的教会は聖徒の交わりの教会です。地上と天上の教会の交わりにある教会です。

ですから私たちは死んでいなくなってしまった人たちを嘆き悲しむ祈りを捧げるのではなく、今一緒になって一つの教会を作り上げているすべての人たちとともに捧げる、いま生きている祈りをささげるのです。