大司教
週刊大司教第二百二十七回:年間第二十七主日
2025年10月06日

時間が過ぎるのは本当に速いものです。数日前まで真夏のように暑い毎日でしたが、少しづつ秋が近づいている気配もあります。その秋らしい季節の10月は、ロザリオの月でもあります。
10月7日にはロザリオの聖母の祝日があり、伝統的に10月にロザリオを祈ることが勧められてきたこともあり、教皇レオ十三世によって10月が「ロザリオの月」と定められました。
ロザリオの起源には諸説ありますが、十二世紀後半の聖人である聖ドミニコが、当時の異端と闘うときに、聖母からの啓示を受けて始まったと言われています。ある意味、ロザリオは信仰における戦いのために道具であるのは事実です。10月7日のロザリオの聖母の記念日が1571年のレパントの海戦でのオスマン・トルコ軍への勝利がロザリオの祈りによってもたらされたことを記念していますが、そういった時代からは社会のあり方が変わった現代社会にあっても、信仰を守るために重要な存在であると思います。社会全体の高齢化が進む中で、実際に教会共同体に足を運ぶことが適わない人にとっても、ロザリオの祈りを持って、霊的共同体の絆を深めることは意味があることだと思います。
来週は枢機卿名義教会への着座式(10月9日)のため、巡礼団と共にローマへ出かけていますので、週刊大司教はお休みします。次回の週刊大司教第228回は、10月18日夜6時の配信になります。
以下、4日午後6時配信の、週間大司教第227回、年間第27主日のメッセージです。
年間第27主日
週刊大司教第227回
2025年10月5日前晩
ルカ福音は、使徒たちがイエスに対して「私どもの信仰を増してください」と願ったことをまず記しています。確かに神を信じて生きるとき、信仰という目に見えない事柄を誰かが強めてくれたらそんなに楽なことはありませんから、そのように願う弟子たちの気持ちも分からないではありません。が、イエスの答えは有名な「からし種ひとつぶほどの親交があれば」という言葉でした。もちろん、イエスは、本物の信仰があれば何でもできると言いたかったわけではありません。そうではなくて、イエスがここで指摘するのは、信仰というのは誰かによって強めてもらうような類いのものではなくて、人生における自分の選択とそれに基づく行動によっているのだということであります。
6月に行われた聖年の神学生の祝祭のおりに、教皇レオ十四世は集まった神学生たちに対して、信仰は積極的に行動することで深まるとして、次のように話されました。
「キリストのみ心は、計り知れない憐れみによって動かされていました。キリストは人類の善いサマリア人であり、わたしたちにこう語りかけます。『行って、あなたも同じようにしなさい』。この憐れみは、群衆のためにみことばと分かち合いのパンを裂くようにと、キリストを突き動かしました。それは、そのときご自身を食べ物として与えた、二階の広間と十字架でのキリストの振る舞いを垣間見させました。そしてキリストは、こういわれました。『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい』。それは、あなたがたのいのちを愛のたまものとしなさいという意味です。」
信仰は、まさしく「あなた方のいのちを愛の賜物としなさい」というイエスの招きに応えることによって、強められます。
さらに福音は、務めに対して忠実で謙遜な僕について語るイエスの言葉を記しています。するべき務めをすべて果たした時に、「私どもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言う謙遜な姿勢こそが、忠実な僕のあるべき姿だとイエスは語ります。わたしたちが信仰を生きる姿勢は、まさしくそのように、それぞれの与えられた召し出しに忠実に、そして謙遜に生きるところに意味があることをイエスは強調されます。神に対する忠実さと謙遜さが、わたしたちにはあるでしょうか。
昨日10月4日で、今年の「すべてのいのちを守る月間」は終わりました。しかしエコロジカルな回心への招きには終わりはありません。
教皇フランシスコは「ラウダート・シ」において、「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわりによって、人間の生が成り立っている」と記しています(66)。その上で、「わたしたちはずうずうしくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めることを拒むことで、創造主と人類と全被造界の間の調和が乱されました」と指摘されました。創造主に対する忠実さと謙遜さの喪失こそが、神に背を向ける姿勢をもたらし、ひいては被造物を、そして共に住む家を破壊する行動に繋がっていると指摘された教皇フランシスコは、神の前で忠実さと謙遜さを取り戻す回心の必要性を説き続けました。
「私どもは取るに足りない僕です」と心から告白できるものであり続けたいと思います。