大司教

週刊大司教第二百二十四回:十字架称賛

2025年09月19日

9月14日は十字架称賛の祝日にあたり、今年はちょうど日曜日ですから、明日9月14日は十字架称賛の主日となります。

また日本の教会では本日を祖父母と高齢者のための世界祈願日としています。本来は7月最後の主日と定められていますが、日本では9月半ばの月曜日に敬老の日があるため、その前日の主日をこの世界祈願日とすることを申請し、聖座(バチカン)の許可をいただいています。

今年の祖父母と高齢者の世界祈願日のテーマは、旧約のシラ書からとられた、「希望を失うことのない人は、幸いだ」とされています。教皇様のメッセージが発表されていますので、こちらのリンクからご覧ください

十字架称賛の翌日9月15日は、その十字架の元にたたずまれた聖母マリアに思いを馳せる悲しみの聖母の祝日です。 聖母マリアの人生は、主イエスとともに歩む人生です。主イエスと苦しみをともにする人生です。神の救いが実現するために、救い主とともに歩む人生です。奇跡を行い困難を乗り越えるようにとイエスを促す、取り次ぎの人生です。十字架の苦しみの時、主イエス御自身から託された、教会の母として歩む人生です。弟子たちの共同体が教会共同体としての歩みを始めた聖霊降臨の日に、ともに聖霊を受け、ともに福音を告げた、教会の福音宣教の母としての人生です。

その人生は、不確実な要素で満ちあふれていました。天使のお告げを受けたときから、一体この先に何が起こるのか、確実なことはわかりません。わかっているのは、確実に苦しみの道を歩むことになるということだけであり、聖母マリアはそれを、神のみ旨の実現のためにと受け入れ、神に身を委ねて人生を歩み続けました。

聖母マリアは神への信頼のうちに、神の計画を受け入れ、身を委ねました。その力の源は、ともに歩まれる様々な人たちとの連帯の絆です。ともに歩む人たちのその先頭には、主イエス御自身がおられました。聖母マリアはシノドスの道をともに歩む神の民の模範でもあります。

9月15日午後に某所で、グレゴリオ聖歌によるラテン語のミサで悲しみの聖母の日を祝いますが、それについては後日また報告します。

以下、13日午後6時配信、週刊大司教第224回、十字架称賛の主日のメッセージです。

十字架称賛
週刊大司教第224回
2025年9月14日前晩

日本の教会では、本日は祖父母と高齢者のための世界祈願日です。ローマでは7月最後の主日に行われますが、日本の教会は敬老の日の近くに移動することで聖座からの許可を得ています。

今年のこの祈願日のメッセージで教皇レオ十四世は、シラ書から「希望を失うことのない人は、幸いだ」という言葉を引用してメッセージを発表されています。

メッセージの中で教皇は、アブラハム、サラ、ザカリア、エリサベトやモーセについて取り上げ、神からの働きかけがこの人たちが高齢の時にあったことを記して、「これらの選択によって、神は次のことをわたしたちに教えます。神の目にとって、老年は祝福と恵みの時であり、神にとって〈高齢者は希望の最初の証人です〉」と宣言されます。

その上で教皇は、「わたしたちの祖父母は、わたしたちにとって、どれほどしばしば、信仰と献身、市民的美徳と社会貢献の模範となってきたことでしょうか。希望と愛をもって彼らがわたしたちに託してくれたこのすばらしい遺産は、わたしたちにとって、どれほど感謝し、守っても不十分なものです」と、人生の先達への感謝を忘れないようにと呼びかけ、社会が「高齢者への敬意と愛情を回復する」必要性を説いておられます。

また教皇は「わたしたちは、どんな困難も奪うことのできない自由をもっています。すなわち、愛し、祈る自由です。すべての人は、つねに、愛し、祈ることができます」と述べて、高齢になって自由を失っても、愛し、祈ることで、希望をもたらすことができると強調されています。

9月14日は十字架称賛の祝日です。いまでこそ、ファッションで十字架を身につける一般の方もおられるようになっていますが、もちろん十字架の起源は、処刑の道具であります。決して「かっこいい」ものではありません。しかしその十字架に、特別な意味を与えたのは、主イエスであります。主イエスこそが、「恐るべき処刑の道具」を「輝かしい栄光のあかし」に変えてくださいました。だからわたしたちは、誇りを持って十字架を示します。感謝を持って十字架を仰ぎ見ます。信頼を持って十字架により頼みます。勇気を持って自らの十字架を背負います。

十字架は、神の愛のわざの目に見えるあかしです。自らいのちを与えられて人間を愛するがあまり、神はその滅びを許されなかった。滅びへの道を歩む人類の罪をあがなうため、自らを十字架の上でいけにえとしてささげられた。これ以上の愛のわざはあり得ません。わたしたちにとって十字架は、悲しい死刑の象徴ではなく、敗北の印ではなく、弱さの象徴でもありません。わたしたちのとって十字架は、希望の印であり、勝利の印であり、強さの象徴であります。そしてなによりも、神の愛のわざの目に見えるあかしのわざであります。

十字架は、キリスト者の生きる姿の象徴であります。他者の喜びのために、自らのいのちを投げ出す。いのちを賭してまでも、他者のために尽くそうとする生き方。キリストご自身の生き方そのものです。わたしたちキリスト者は、優しい人間だから、善人だから、困っている人を助けたり、愛のわざを行うのではありません。そんな、個人の性格に頼った、生やさしい信仰ではありません。

私たちも、私たちの生きる姿そのものによって、イエスの教えを、福音を、その愛といつくしみを、あかししていく、十字架と共に歩む者でありたいと思います。