大司教

週刊大司教第二百二十二回:年間第二十二主日
2025年09月01日
今年は8月の最後の日が日曜日となりました。年間第22主日です。
翌月曜日9月1日に始まって、アシジの聖フランシスコの祝日である10月4日まで、日本の教会は「すべてのいのちを守る月間」と定めています。これは2019年に、「すべてのいのちを守るため」をテーマと掲げて教皇フランシスコが日本を訪問されたことを記念し記憶するために日本の教会が定めました。また世界の教会は、エキュメニカルなコンテキストの中で、この同じ期間を「被造物の季節」と定めています。今年は特に、2015年に教皇フランシスコが「ラウダート・シ」を発表されてから10年ですので、節目を祝うイベントが多く予定されています。
日本の司教協議会では、「ラウダート・シ部門」を設置しており、担当者である成井司教様から、メッセージが出ています。こちらのリンク先をご覧ください。また教皇レオ十四世の被造物を大切にする世界祈願日にあたってのメッセージ、「平和と希望の種」は、こちらのリンクです。
またラウダート・シ部門では、10月4日にシンポジウムを福岡で開催することになっており、こちらのリンクに詳細がありますが、オンラインでも参加いただけることになっています。
先日米国はミネソタ州ミネアポリスのカトリック教会で、学校の子どもたちが集まりミサを下げている場で銃による襲撃が起こり、二人の子どもが殺害されるという事件がありました。銃撃犯もその場で自死したと伝えられています。犯行の背景や具体的な動機など詳細には分からないことも多いので、予断を持って語ることは避けたいとは思います。しかし、いのちに対するこのような暴力的攻撃はゆるされてはなりません。
亡くなられた子どもたちの永遠の安息と、怪我をされた子どもたちの身体と心の癒やしを祈るとともに、あらためて、神からの賜物であるいのちに対する暴力は、どのような理由であれ、ゆるされないことを心に留めたいと思います。とりわけ、「すべてのいのちを守る月間」に入ろうとしているいま、それは単に環境保全活動を推奨しているのではなく、回心を求めていることを心に留め、神が愛を込めて創造されたすべての被造物の中でも特にご自分の似姿として創造され与えられたわたしたちのいのちを、徹底的に守り抜く決意を固めたいと思います。
9月3日には聖座とイタリアのルッカ大司教区の主催する大阪万博でのシンポジウムがあり、日本の司教団も招待されています。その機会を捉えて、シノドス特別チームでは、翌日に大阪で、司教団と教区のシノドス担当者を集め、シノドスのこれからの歩みについて学ぶ研修会を開催します。折しも、先のシノドスの総書記であったオロリッシュ枢機卿様もこのシンポジウムのために来日されることから、今回の研修会ではオロリッシュ枢機卿様に日本語で講演をしていただきます。シノドスの中心にいた方で、日本語で話ができるのはオロリッシュ枢機卿様だけですから、この機会を逃さず、いろいろと学び実践し、それを各教区でのシノドスのこれからの歩みにつなげていきたいと思います。
以下、8月30日午後6時配信、週刊大司教第222回、年間第22主日のメッセージです。
年間第22主日
週刊大司教第222回
2025年8月31日前晩
ルカ福音は、イエスがファリサイ派のある議員の家で食事に招かれたときの話を記しています。集まってきた人たちが、多分は、我先にと名誉ある良い席に着こうとする姿を見て、イエスが「婚宴に招待されたら、上席についてはならない」と語ったことを福音は記します。
人間関係においては謙遜さが重要だとするこの話は、それだけで終わっていたら、単にマナーを教える話にとどまってしまいます。しかしこのあとにルカ福音は、「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」と記し、ここでいう謙遜さはマナーではなく、人としての生き方の選択の話であることを明確にします。
すなわち、神の国に招かれるというのは、何かを成し遂げたことに対するご褒美なのではなく、どのような生き方を選択したかに基づく、神からの恵みであります。謙遜に生きることを選択した時、初めて神からの恵みとして、「さあ、もっと上席に進んでください」という招きがあるのです。何を成し遂げたかではなく、どう生きることを選択したのか。それが神の目には重要です。
その選択にあっては、賜物として与えられたすべてのいのちを神が愛おしく思われているからこそ、誰ひとりとして忘れ去られることはないという道を最優先にしなければならないことが、その続きの話によって示唆されます。
天の国で豊かに報いを受けるためには、この社会の現実の中で、余すことなく自分自身を与え、互いのきずな、交わり、兄弟愛を深め、報いを期待せずに困難にある隣人に目を向けることが不可欠であると指摘されます。
高慢さの中にあって、困難に直面する隣人への視点を失ったところにはいのちがないと、イエスは指摘されています。
現代社会の現実は、排除と排斥に軸足を置き、持てる者と持たない者との格差が広がり続け、持たない者はその存在さえ忘れ去られたと、教皇フランシスコはたびたび指摘してきました。
教皇レオ十四世は、先日の聖年の行事の一つ、青年の祝祭での晩の祈りで、青年たちにこう語りかけました。
「選択は、人間の根本的な行為です。・・・わたしたちが選択を行うとき、わたしたちはどのような者になりたいかを決断します。実際、優れた意味での選択とは、自分の人生に対する決断です。わたしはどのような人間になりたいのか。親愛なる若者の皆様。わたしたちは人生の試練を通して、そして、何よりもまず自分が選ばれたことを思い起こすことによって、選択することを学びます。・・・わたしたちはいのちを、自分で選ぶことなく、無償で与えられました。わたしたちの存在の起源にあるのは、自分の決断ではなく、わたしたちを望んだ愛です。わたしたちが行うように招かれた選択において、この恵みを認め、新たにすることをわたしたちの存在を通して助けてくれる人こそが、真の友です」
わたしたちの謙遜さは、社会の人間関係にあってのマナーではなく、神からまず愛されたのだという事実を認めることによる、神の前での謙遜さです。そのとき、同じく愛されたものとして、特に困難に直面する隣人への目が開かれます。危機に直面するいのちに対して、目が開かれます。わたしたちは同じいのちを与えられました。そのいのちが、神が求めた人生を豊かに充実して歩み、常に愛に満たされる社会を生み出していく努力を続けたいと思います。