大司教

週刊大司教第二百二十回:年間第二十主日

2025年08月18日

8月も半ばを過ぎました。8月17日は年間第20主日です。

写真は、先日8月9日に行われた、東京教区としての平和旬間行事からです。

今年の東京教区平和旬間2025は、「平和を実現する人は幸い 戦後80年不戦の誓いをあらたに」をテーマに、8月9日の午後に教区としての行事を行いました。それ以外にも、小教区や宣教協力体で独自の行事を行っている共同体もあります。

教区行事はまず、午後1時からの講演会で、講師は、信徒の浜矩子さん(同志社大学名誉教授、エコノミスト)。演題は「戦後80年 キリスト者としての平和への新たな決意」

その後、わたしが司式し、多くの信徒、修道者、司祭の参加を得て平和祈願ミサ。その後、関口から目白駅まで平和行進が行われました。ご参加くださった皆さん、配信ミサに与りともに平和のために祈ってくださった皆さん、ありがとうございました。

以下、16日午後6時配信の、週刊大司教第220回、年間第20主日のメッセージ原稿です。

年間第20主日
週刊大司教第220回
2025年8月17日前晩

争い事のない世界があれば、それは確かに良いことではあります。しかし争い事のない状況、つまりわたしたちが「平和だ」という状況が、本当の意味での「平和」の実現であるのかどうかは、定かではありません。なぜならば、真の平和の確立とは、神の秩序の実現を意味しているからです。例えば武力の脅威の均衡によって成り立っている平和が、単なる平穏な状況であって、神の平和の確立からはほど遠いことであると、教会は繰り返し指摘してきました。

神の目において人間が不完全である限り、時としてその「平和」は、誰かの人間の尊厳が不当に虐げられ、忘れさられることで成り立っている平穏さかもしれません。神の秩序を確立する行動は、居心地の悪さを生み出します。長年の人間関係の中で確立してきた既得権益を奪い取ろうとすることもあるためです。神からの賜物であるすべてのいのちがその尊厳を守られる世界を実現するためには、目を背けることではなく、世界を支配する価値観への挑戦が不可欠です。

ルカ福音は、「私が来たのは、地上に火を投ずるためである」というイエスの言葉を記しています。「平和をもたらすためにきたと思うのか。そうではない。・・・分裂だ」ともイエスは言われます。

イエスのこの言葉が、愛と赦しをかたるイエスの姿とはかけ離れて見えます。しかしそこにこそ福音の真髄が示されています。すなわち、福音においてイエスが語っている愛と赦しは、単なる人の優しさの話なのではありません。神の平和を確立するためのいのちをかけたコミットメントであり、既存の世界の価値観を根底から覆す、まさしく地上にもたらされる火こそが、神の平和の確立のためには不可欠であることを明確にしています。あの聖霊降臨の出来事は、騒々しく落ち着かない出来事でありました。聖霊の燃えさかる炎が広がっていくのであれば、それはこの世を支配する既成の価値観と対立するからにほかなりません。

教皇レオ十四世は、7月末に行われた聖年の行事の一環である青年の祝祭において、世界中から集まった100万人を超える青年たちに、信仰に生きるのであれば具体的な行動をするように促しました。トール・ヴェルガータでの青年の祝祭ミサ説教で教皇は、「わたしたちは、すべてのものが予定され、固定された人生としてではなく、絶えずたまものと愛において新たに生まれる存在として造られている」と指摘され、わたしたちは「この世のいかなるものも満たすことのできないものへの、深い、燃えるような渇きを覚えて」いると指摘されます。その上で教皇は、「このような渇きを前に、効果のない代替物でこの渇きを鎮めようとして、自分の心をごまかしてはなりません。むしろ、この渇きに耳を傾けてください。つま先立ちする幼子のように、この渇きを、神と出会う窓に顔を出すためにその上で立ち上がる、足台としてください」と述べました。

さらに教皇は、その前晩の夕べの祈りで、「生き方を反省し、より人間らしい世界を築くために正義を追求してください。貧しい人に奉仕し、そこから、つねに隣人にしてほしいと望む善をあかししてください。聖体のうちにイエス・キリストと一致してください。永遠のいのちの源泉である至聖なる秘跡のうちにキリストを礼拝してください。イエスの模範に従って学び、働き、愛してください」と呼びかけられました。

わたしたちも現実から目をそらすことなく、イエスの模範に倣って、「学び、働き、愛」するものでありたいと思います。平穏な世界に満足せず、福音の実現のために、そして神の平和の確立のために行動し続けるものでありたいと思います。