大司教

週刊大司教 第二百十八回:年間第十七主日
2025年07月28日
年間第17主日です。あっという間に時は過ぎ、7月ももうあと少しです。各地で通常を超える暑さが続いていますが、お見舞い申し上げます。
7月27日から8月3日まで、ローマでは聖年の行事として「青年の祝祭」が行われ、日本からも青年たちを中心にした巡礼団がローマに出かけています。アンドレア司教様はこちらに同行されてローマに行かれます。
わたしも、同じ時期ですが、別途の予定で7月30日、国際カリタスの青年部門が主催するカリタスの青年の祝祭で、ローマの教会でのミサの司式を依頼されているので、数日間だけローマに出かける予定にしています。ローマも非常に暑いと聞いています。青年の行事に出かけられる皆さんには、体調にぜひ気を付けて、良い巡礼と出会いを体験してこられますように。
まもなく日本の教会は平和旬間を迎える時期です。この時期だからこそあらためて声をあげますが、神からの賜物であるいのちに対するすべての暴力を止めましょう。武力の行使をやめましょう。大切なこのいのちから尊厳を奪い、恐れのうちで絶望を抱くような世界を、希望を生み出す世界にしましょう。いのちを与えられたものとして、神の前で謙遜に生きるものでありましょう。
以下、26日午後6時配信、週刊大司教第218回、年間第17主日のメッセージです。
年間第17主日
週刊大司教第218回
2025年7月27日前晩
ルカ福音は、主の祈りが弟子たちに与えられた様を記しています。その祈りは、「父よ」と始まります。イエスがその言葉と行いを通じてわたしたちに示される「父」は、例えば放蕩息子を迎え入れる父親であったりするように、いつくしみそのものであります。イエスは、いつくしみそのものである御父が、わたしたちの叫びに耳を傾けようと忍耐強く待ち続けているのだから、信頼のうち、「お父さん」と呼びかけるように教えられます。
この主の祈りは、わたしたちの叫びの祈りであると共に、わたしたちに歩むべき道を教える祈りでもあります。
御父の御名があがめられるように努めるのは、わたしたちの役割です。そのために何ができるのでしょうか。
御国が来ますように、すなわち神の秩序がこの世界を支配するように祈ることは、神の平和が実現し確立するように祈ることでもあります。神の平和は、わたしたちが具体的に働くことでのみ、この世界に実現します。そのために何ができるのでしょうか。
日ごとの糧を求めることで、賜物であるいのちが十全に生きることのできるように働く決意を示します。いのちの尊厳が護られ、与えられた使命を生きることのできる世界を生み出すのは、わたしたちの務めです。いのちを生かしてほしいと御父に願うわたしたちが、そのいのちの尊厳をないがしろにするような行動をとったり、他者の尊厳を傷つけて平然としていることは考えられません。人間の尊厳を尊重し護る道を歩むものでありたいと思います。
赦し合うことは、一致のうちに共に支え合いながら歩もうとするわたしたちにとって、重要な姿勢です。神がその愛を持ってわたしたちを包み込んでいるからこそ、わたしたちもその愛を同じように分かち合いたいと思います。
誘惑にあわせないでくださいと祈ることで、人として様々な誘惑に打ち勝った主ご自身に、わたしたちが倣うことのできる恵みを願います。霊的に闘うのはわたしたちの務めです。
わたしたちの祈りに耳を傾けられる御父の姿勢は、創世記に記されたソドムの町に関するアブラハムと神のやりとりにもよく表れています。辛抱強く耳を傾けるのは、御父です。
御父が耳を傾けてくださる存在であるからこそ、イエスは弟子たちに、「求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい」と諭します。与えられるものは「よいもの」です。「聖霊」です。邪悪な事柄を執拗に求めたからと言って、それは聞き入れられません。求めることができるのは、善であり、悪ではありません。神の御旨の実現であり、悪の支配ではありません。ゆるしであって、分裂や分断ではありません。人間の尊厳を護ることであって、賜物であるいのちに対する暴力を肯定することではありません。