大司教

週刊大司教第二百六回:復活節第二主日
2025年04月28日
復活節第二主日です。
本日は教皇フランシスコの葬儀ですが、時差もありますので、これは後ほど記事を書きます。
以下、26日午後6時配信、週刊大司教第206回、復活節第二主日メッセージです。
復活節第二主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第206回
2025年4月27日前晩
「人類は、信頼を持ってわたしのいつくしみへ向かわない限り、平和を得ないであろう」という聖ファウスティナが受けた主イエスのメッセージに基づいて、復活節第二主日を「神のいつくしみの主日」と定められたのは、教皇聖ヨハネ・パウロ二世であります。この主日にわたしたちは、「信じない者ではなく、信じるものになりなさい」と、信じることのできなかったトマスを見放すのではなく、改めてその平和のうちに招こうとされる主のいつくしみに信頼し、そのあふれんばかりの愛のおもいに身をゆだねる用に招かれています。同時に、わたしたちを包み込まれる神のいつくしみを、今度は他の人たちに積極的に分かち合うことを決意する主日でもあります。
教皇フランシスコの、東京ドームでの言葉を思い起こします。
「傷をいやし、和解とゆるしの道をつねに差し出す準備のある、野戦病院となることです。キリスト者にとって、個々の人や状況を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子どもたちに示しておられる、いつくしみという基準です」
わたし達が生きているいまの世界は、果たしていつくしみに満ちあふれている世界でしょうか。いつくしみに満ちあふれることは、決してただただ優しくなることではなく、根本的には神からの賜物であるいのちの、それぞれの尊厳を守ることを最優先にすることを意味しています。ですから、他者を排除したり、切り捨てたりすることはできません。
復活された主は、週の初めの日の夕方、ユダヤ人を恐れて隠れ鍵をかけていた弟子たちのもとへおいでになります。「平和があるように」という挨拶の言葉は、「恐れるな、安心せよ」と言う励ましの言葉にも聞こえます。同時にここでいう「へいわ」すなわち神の平和とは、神の支配の秩序の確立、つまり神が望まれる世界が実現している状態です。そのためには「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなた方を遣わす」というイエスの言葉が実現しなくてはなりません。わたし達は何のために遣わされているのでしょうか。
イエスは弟子たちに聖霊を送り、罪のゆるしのために派遣されました。罪のゆるし、すなわちイエスご自身がその公生活の中でしばしば行われたように、共同体の絆へと回復させるために、神のいつくしみによって包み込む業を行うことであります。排除ではなく、交わりへの招きです。断罪ではなく、人間の尊厳への限りない敬意のあかしであります。
交わりの絆は、わたし達の心に希望を生み出します。わたしたちの信仰は、いつくしみ深い主における希望の信仰です。互いに連帯し、支え合い、賜物であるいのちの尊厳に敬意を払い生きるようにとわたしたちを招く、神の愛といつくしみは、わたし達の希望の源です。