大司教

週刊大司教第二百五回:受難の主日

2025年04月14日

受難の主日となり、今年の聖週間が始まりました。あらためてわたしたちひとり一人の信仰の原点である主の受難と死、そして復活を黙想して、そこにおける主との出会いという希望の体験に立ち返り、また御復活祭に洗礼を受ける準備をしておられる方々のためにさらに祈りましょう。

なお受難の主日午前10時に始まり、聖木曜日午後7時、聖金曜日午後7時、復活徹夜祭午後7時、復活の主日午前10時は、すべてわたしの司式で、東京カテドラル聖マリア大聖堂からビデオ配信される予定です。こちらのリンク先のカトリック東京大司教区のYoutubeチャンネルからご覧頂けます。

以下、12日午後6時配信、週刊大司教第205回、受難の主日のメッセージ原稿です。

受難の主日
週刊大司教第205回
2025年4月13日前晩

3月28日午後にミャンマー中部を震源とするマグニチュード7.7の大地震が発生しました。現時点での報道では、ミャンマーの第二の都市であるマンダレーや首都のネピドーに大きな被害があり、またタイの首都バンコクでも、建設中の高層ビルが倒壊するなど、被害が多数出ています。

ミャンマーの教会は、東京教区にとっての長年の大切なパートナーです。ケルン教区と共に様々な支援を行ってきました。今年は、今度は二人のミャンマーの司祭が、東京教区で働くために来日してくれました。東京教区は数年前から、今回の震源に近いマンダレー教区の神学生養成の支援に取り組み、哲学課程の神学校建物の建設を支援しています。今回の地震発生直後から、マンダレー教区関係者から連絡があり、教会の施設の多くがダメージを受け、避難者の救援作業にあたっていると支援の要請が来ました。もちろん、金銭での支援も重要ですからこれから具体的な方策を考えますが、それ以上に、信仰の絆における連帯を示すことも重要です。

愛する家族のひとりが、目の前でいのちの危機に直面しているならば、多くの人は平然としてはおられないはずです。なんとかして、どうにかして、助けたいと思うことでしょう。まさしく今起こっていることは、信仰における兄弟姉妹がいのちの危機に直面している状況です。いても立ってもいられなくなるはずですが、どうでしょうか。東北の大震災の直後、当時カリタスジャパンを担当していたわたしの元には、世界中各地から、祈っているとのメールが殺到しました。信仰における絆を実感した体験です。

多くの人が犠牲になる大災害や戦争のような事態が起こっても、それが目の前ではなくて遙か彼方で発生すると、わたしたちはどういうわけか、あれやこれやと理屈を並べて、まるで人ごとのように眺めてしまいます。そのような態度とは、すなわち無関心です。無関心はいのちを奪います。神のひとり子を十字架につけて殺したのは、あの大勢の群衆の「無関心」であります。

歓声を上げてイエスをエルサレムに迎え入れた群衆は、その数日後に、「十字架につけろ」とイエスをののしり、十字架の死へと追いやります。無責任に眺める群衆は、そのときの感情に流されながら、周囲の雰囲気に抗うことができません。

パウロは、イエスが、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」であったからこそ、「神はキリストを高く上げ、あらゆる名に勝る名をお与えに」なったのだと記します。

復活を通じた永遠の命を生きるというわたしたちの希望は、受難と孤独のうちの十字架での死という絶望的な断絶の状況にあっても、イエスは御父と一体であったからこそ、希望を失うことがなかったという事実に基づいています。無関心は孤立をもたらし、絶望を生み出します。しかしいのちの与え主である御父に繋がる中で、兄弟姉妹として互いに結ばれているという確信は、命を生きる希望を生み出します。いま、世界に必要なのは、いのちを生きる希望であって、絶望ではありません。

互いへの無関心が支配する現代社会にあって、わたしたちはイエスご自身に倣い、御父との絆に確信を抱きながら、互いに支え合い、希望を生み出し、それを告げる者でありたいと思います。

無関心のうちに傍観して流される者ではなく、互いを思いやり、支え合い、ともに歩みを進める者でありたいと思います。