大司教

週刊大司教第二百二回:四旬節第三主日
2025年03月24日
四旬節第三主日となりました
先日、教会のシノドス性について話し合ったシノドスのこれからの実施過程についてのバチカンのシノドス事務局長グレック枢機卿様の書簡が公開されました。2028年10月に、シノドスではない教会総会を開催するとの内容でした。このブログの一つ前の記事で解説していますので、お読みいただければと思います。
以下、22日午後6時配信、週刊大司教第202回、四旬節第三主日のメッセージです。
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四旬節第三主日
週刊大司教第202回
2025年3月23日前晩
わたしたち限られた時間しか与えられていない存在にとって、永遠の時の流れを理解することはできません。永遠の時の流れの中では、わたしたちの人生はほんの一瞬に過ぎないからです。その理解を超えた時間の流れの中で、神はいのちを創造し、賜物として与え、さらに人類の裏切りを忍耐強く見守り、さらにはご自分が愛を込め、その似姿として創造したいのちを救うための計画を成し遂げて行かれようとしています。救いの計画は、わたしたちの理解を遙かに超えています。
ルカ福音は、度重なる人類の裏切りに対して神がその怒りをわたしたちに向けないのは、いつくしみのうちに忍耐強く待っておられるからであり、わたしたちは生かされているのであって、自由に生きていることをゆるされているわけではないと示唆する、イエスの言葉を記します。
「あなた方も悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と言うイエスの言葉は、わたしたちを回心へと導きます。四旬節は、わたしたちを生かしている神の救いの計画の壮大さと、わたしたちを包む神のいつくしみの深さを心で感じ、常に回心へと導かれていることを心に刻むときです。
教皇様は今年の四旬節メッセージ、「希望をもってともに歩んでいきましょう」において、わたしたちの回心について三つの側面から語っておられます。
その最初の側面は、巡礼者として「歩む」ことにあると教皇様は指摘され、「約束の地へと向かうイスラエルの民の長い旅路」に心を向け、そこにあって「奴隷状態から自由へのこの険しい道のりをお望みになり導かれたのは、ご自分の民を愛し、その民につねに忠実であられる主です」と、時間の枠を遙かに超えた救いの計画のうちにわたしたちが生かされ、神の民として旅を続けている存在であることを思い起こすように呼びかけます。
その上で教皇様は、「聖書の出エジプトを考えるとき、現代にあって、自分や愛する家族のよりよい生活を求め、困窮や暴力から逃れようとして旅立つ兄弟姉妹のことを思わずにはいられません。ここで、回心の最初の呼びかけが生まれます」と指摘します。同じ旅人であるわたしたちにとって、「移民や移住者の具体的な現実に向き合い、それに実際にかかわって、御父の家へと向かうよりよい旅人となるため、神がわたしたちに何を求めているかを見いだすことは、四旬節のよい鍛錬となる」と記しています。
わたしたちは、想像を遙かに超えた神の救いの計画の中で生かされている存在です。時の流れの中を旅する神の民です。生かされ、救いへと導かれていることに感謝し、困難や暴力にさらされる中で旅を続ける多くの兄弟姉妹へと、心を向けたいと思います。
四旬節の第二金曜日、先日3月21日は「性虐待被害者のための祈りと償いの日」であります。
神の似姿としてのいのちの尊厳を守る務めを率先するべき聖職者や霊的指導者が、信頼を裏切って、いのちの尊厳をないがしろにする行為、とりわけ性虐待という人間の尊厳を辱め蹂躙する行為におよんだ事例が、日本を含め世界各地で報告されています。教会共同体の中で、被害を受けられた方にあたかも責任があるかのような言説で、二次加害を生み出す事例も聞かれます。
ともに希望の巡礼者として歩む教会は、いのちを生きる希望をあかしする共同体でなければなりません。それを裏切って立場を利用し、いのちの尊厳を傷つけた聖職者や霊的指導者の加害を、心から申し訳なく思います。よりふさわしい対応をすることや、啓発活動をすることに、これからもさらに取り組んでいきたいと考えています。
わたしたち司教や聖職者がこのような罪を繰り返すことのないように、信仰における決意を新たにし、わたしたちを生かしてくださる神のいつくしみによりすがり、愛のうちに祈り、行動したいと思います。