大司教

週刊大司教第二百回:四旬節第一主日
2025年03月10日
毎週土曜夕方にお送りしているビデオプログラム「週刊大司教」は、今回で節目の200回目となりました。
ご視聴いただき、一緒に祈ってくださる多くのみなさまにに感謝いたします。
ビデオでの配信は、教区本部の広報担当者が制作にあたっていますが、毎回の視聴数が千を下回ることが続いた場合、役目を終えたと判断して終わりにするようにと申し合わせてありました。ただありがたいことに、毎回千を越える方が視聴してくださっていますので、ここまで続いてきました。これからも可能な限り続けていきたいと思います。
今後ともどうぞよろしくお願い致します。
また、こちらのブログ「司教の日記」には、毎回のテキストに加え、その時々の情報もいろいろと記しておりますので、できれば教区の皆様全員に目を通していただければと願っています。お近くのお知り合いにも、このブログの存在をお知らせいただければ幸いです。もちろんパソコンでもスマホでもご覧いただけます。
なお四旬節第一主日にあたる3月9日午後2時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂において、教区の召命のために祈り献金する一粒会の総会にあわせてミサが行われ、その中で、アンセルムス今井克明神学生の朗読奉仕者選任式が執り行われました。今後とも司祭召命のために、また今井神学生のためにお祈りください。
以下、四旬節第一主日、週刊大司教第200回目のメッセージ原稿です。
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四旬節第一主日
週刊大司教第200回
2025年3月9日前晩
3月5日の灰の水曜日から、今年の四旬節が始まりました。今日は四旬節第一主日です。
教会の伝統は、四旬節において「祈りと節制と愛の業」という三つの行動をもって、信仰を見つめ直すようにわたしたちに呼びかけています。また教会は四旬節に特別な献金をするようにも呼びかけ、日本の教会ではこれをカリタスジャパンに委託しています。四旬節愛の献金は、隣人のために自らを犠牲としてささげる心をもって行う、具体的な愛の業そのものです。またその犠牲の心を持ってわたしたちは、いのちの危機に直面し助けを必要としている多くの人たちに心を向け、具体的な意味でともに歩む者となります。互いに支えあう連帯の絆は、いのちを生きる希望のしるしです。
四旬節において、わたしたちは信仰を見つめ直し、自らの信仰の原点に立ち返ります。また御父のいつくしみを自らの心に刻み、社会の現実の中でそれを多くの人に具体的に示し、希望をあかしする者となります。
ルカ福音は、荒れ野における四十日の試みの話を記します。イエスは、いのちを生きるには極限の状態である荒れ野で、人間の欲望に基づいたさまざまな誘惑を悪魔から受けます。福音に記された、空腹の時に石をパンに変えることや、この世の権力と繁栄を手に入れることや、神に挑戦することなどの誘惑は、この世に満ちあふれている人間の欲望の反映であります。それに対してイエスは、申命記の言葉を持って反論していきます。本日の第一朗読である申命記には、モーセがイスラエルの民に原点に立ち返ることを説く様を記します。神に感謝の捧げ物をするときに、自分たちがどれほどに神のいつくしみと力に護られてきたのかを、共同体の記憶として追憶する言葉です。神に救われた民の原点に立ち返ろうとする、記憶の言葉です。
共通の救いの記憶、すなわち共同体の信仰の原点に立ち返ることにこそ、この世のさまざまな欲望に打ち勝つ力があることを、イエスは明確にします。現代社会の神の民であるわたしたちにとって、旧約の民のような、立ち返るべき共通の信仰の原点はなんでしょうか。
教皇様は聖年の大勅書「希望は欺かない」に、聖年のロゴのイメージについてこう記しておられます。
「錨のイメージが雄弁に示唆するのは、人生の荒波にあっても、主イエスに身を委ねれば手にできる安定と安全です。嵐に飲まれることはありません。わたしたちは、キリストにおいて生きて、罪と恐れと死に打ち勝つことができるようにする恵みである希望に、しっかりと根を下ろしているからです」
わたしたちの共通の信仰の原点はそこにこそあります。死に打ち勝ったイエスにこそ、わたしたちの信仰の原点である希望があります。この四旬節に、あらためてわたしたちに共通する希望の源を見つめ直しましょう。
四旬節第一主日には今年の復活祭に洗礼を受けるために準備をされている方々の洗礼志願式が多くの教会で行われます。復活に向けて心を整えるこの時期こそ、キリストの死と復活に与る洗礼への準備に最も適しています。洗礼志願者の皆さんのためにも祈りましょう。