大司教

週刊大司教第百九十七回:年間第六主日
2025年02月17日
この週末は、新潟教区へ出かけていましたので、週刊大司教の更新が遅くなってしまいました。
新潟教区はわたしにとって、2004年から2017年まで司教を務めさせて頂いた地であり、またその後も成井司教様が誕生するまで、東京と兼任で管理者を務めていた教区です。その意味で、今の司教としてのわたしのあり方を形作ってくださった教会共同体は、新潟教区の教会共同体です。
わたしが在任中に、当時の新潟地区で信徒養成講座を始めました。それぞれの小教区共同体の規模が小さい教区ですから、地区としてまとまって講座をするのが一番と考えたからです。それが今でも続いており、今年の信徒養成講座に、シノドスのお話をするために招いていただきました。土曜日の午後に、カテドラルである新潟教会を会場に、集まってくださった大勢の方々を前に、今般のシノドスについて、またこれからの取り組みについて、お話をさせていただきました。
またわたしを育ててくださった教区に、枢機卿に親任されてからまだお礼に訪れていませんでしたので、16日の日曜日には、新潟教会で感謝のミサを捧げさせていただきました。成井司教様、主任の田中神父様、教区事務局長の大瀧神父様、引退されている町田神父様と一緒に、ミサを捧げさせていただき、聖堂は、近隣の小教区の方も含めて大勢の方に参加いただきました。お祝いの言葉や激励、そしてたくさんの霊的花束を通じたお祈りの約束も頂きました。感謝します。
この週末は、奇跡的に天気が回復し、一週間前は大雪だったのですが、この土曜日はきれいな青空でした。おかげさまで、懐かしい海岸まで出て日本海を眺めたら佐渡島まで見えていましたし、変化しようとしている新潟市の中心地行きも歩いて回り、懐かしさに満たされることもできました。日本海側の地域全体として、高齢化が進んでいるのは事実で、これから教会も厳しい現実に直面せざるを得ないと思われますが、しかしこの日のミサには大勢のベトナム出身の若者たちだけでなく、幼い子供を連れた家族連れの姿も見られ、これからも共同体が力強く続いていく可能性を見ることができました。東京教区と比較をすれば司祭の数は絶対的に少なく、成井司教様が教区司祭団では一番の若手なくらいですし、主任司祭は一人で二つや三つの教会を担当しているなど、司牧に大変な思いをされていると思います。その中でも、成井司教様の耳を傾けともに歩む姿勢が良く現れた宣教司牧方針が力強く語っているように、福音をあかしする共同体として、これからも困難を乗り越えて歩んで行かれることと思います。いろいろな形で、東京からも応援したいと思います。
以下、15日午後6時配信の週刊大司教第197回目のメッセージ原稿です。
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年間第6主日
週刊大司教第197回
2025年2月16日前晩
希望の巡礼者としてこの聖年を歩んでいるわたしたちに、「貧しい人々は幸いである、神の国はあなた方のものである」と言う福音の言葉が、希望を生み出す真の幸いについて黙想するようにと促しています。
教皇様は、大勅書「希望は欺かない」に、「キリスト者の希望は、裏切ることも欺くこともありません。なぜならそれは、何事も何者も神の愛からわたしたちを引き離すことはできないという確信に根ざすものだからです」と記しています。この世界が生み出す物質的な富や名誉は、一時的な喜びを生み出すことはあっても、永続的な幸福の源とはなりません。なぜなら、真の幸福は神の愛に満たされたところにこそあり、その愛はわたしたちを裏切ったり欺いたりすることのない永遠の希望をもたらします。
とはいえ現実の社会は様々な苦しみに満ちあふれ、いのちの尊厳は常に危機に直面させられています。この現実の困難の中で、わたしたちは希望を見いだすことに困難を感じることがしばしばあります。教皇様は、「人生は喜びと苦しみが織りなすものだということ、愛は問題が増すとき試練に遭うということ、希望は苦しみの前ではついえそうになるものだということを知っています」と「希望は欺かない」に記します。
その上で、パウロのローマの教会への手紙を引用して、「(わたしたちは)苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを(ローマ5・3―4)」と記しています。
本日のルカ福音と同じイエスの言葉を記すマタイ福音には、八つの「幸い」が記されていることから、このイエスの教えを「真福八端」と呼んでいます。ルカ福音には四つの幸せと四つの不幸が記されています。教会のカテキズムには、「真福八端はイエス・キリストの姿を描き、その愛を映し出しています。受難と復活というキリストの栄光に与る信者たちの召命を表し、キリスト者の生活を特徴づける行動と態度とを明らかにする」と記し(カテキズム1717)、苦しみと栄光が神においては表裏一体であることを指摘します。
苦しみや忍耐というこの世では「幸い」とは考えられない中に希望を見いだすという、逆説的な信仰者の生き方の中にこそ、神の祝福があることを、このイエスの言葉は明確にしています。わたしたちが真の希望に満たされて歩み続けることができるために、この世界で当然だと考えられる幸せの基準の中で生きるのではなく、キリストとともに苦難の道を歩み続けること、また苦難のうちにある人たちとともに、真の希望を見いだすために歩み続けることが求められています。
苦しみが絶望に支配されることのないようにするために、苦しみの前で何も挑戦をせず諦めてしまうのではなく、互いに支え合い、希望に到達する道を探りたいと思います。そのためにも、神からの賜物であるそれぞれのいのちの尊厳が守られる社会が実現するために、互いに神のいつくしみと愛を心に抱き、それを目に見える形であかししながら、力を合わせて歩み続けることが必要です。ともに旅を続ける希望の巡礼者でありましょう。