大司教

週刊大司教第百九十六回:年間第五主日

2025年02月10日

年間第五主日です。

今週の火曜日、2月11日はルルドの聖母の祝日ですが、世界病者の日とされています。教皇様の今年のメッセージのタイトルは、聖年にちなんで「希望は欺かない」ですが、本文は中央協議会のこちらのリンクからご一読いただけます。

また当日は、午後2時から東京カテドラル聖マリア大聖堂で病者の日のミサがカリタス東京の主催で行われますが、こちらはどなたでもご参加いただけます。このミサはわたしが司式いたします。またYoutubeでの配信も行われます。どうぞご参加ください。

また本日のメッセージでも触れていますが、この一週間は日本の殉教者の記念日が続きました。毎年恒例になっていますが、墨田区の本所教会では、2月の最初の日曜日に日本二十六聖人殉教者の殉教祭ミサが捧げられており、今年も2月2日にわたしが司式して捧げられました。聖年の巡礼ということもあり、今年のミサには様々な小教区の方々が参加してくださいました。(上の写真)

さらに2月8日は聖ヨゼフィーナ・バキータの祝日です。メッセージの中で詳しく触れていますが、奴隷としてアフリカから人身売買の被害者としてイタリアにたどり着いた彼女は、その後、カノッサ会の修道女となりました。彼女の人生にちなんで、この日は女子修道会国際総長会議によって「世界人身取引に反対する祈りと啓発の日」とされています。

以下、8日午後6時配信、週刊大司教第196回、年間第五主日のメッセージです。
※印刷用はこちら
※ふりがなつきはこちら

年間第5主日
週刊大司教第196回
2025年2月9日前晩

「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」とイエスに応えたシモン・ペトロは、その後、生涯にわたってまさしく主の「お言葉ですから」と、教会の頭としての務めを果たし続けました。召命は、神からの呼びかけであって、自分の選択ではなく、果たすべき役割も、自分の選択ではなく、神の計画です。その神の計画は、人の知恵を遙かに超えていることが、この福音の物語から理解されます。人間の常識的にはあり得ないけれど、「お言葉ですから」と網を下ろした結果は、神の計画の実りでありました。

教皇フランシスコが、教会のシノドス性について取り上げた先のシノドスの最中、総会の参加者に繰り返されたのは、「主役はあなた方ではなくて、聖霊です」という言葉でした。シモン・ペトロの後継者としての教皇様は、まさしくわたしたちが従うべきなのは人間の知恵ではなく聖霊の導きであって、常に「お言葉ですから」とその導きに従う覚悟を持つことの大切さを説いておられました。いま教会に必要なのは、この世の知恵に基づく識別ではなく、神の知恵に基づく識別です。聖霊が主役です。

この一週間は、2月3日に福者高山右近、2月5日に日本26聖人殉教者と、日本の殉教者の記念日が続きました。

「殉教者の血は教会の種である」と、二世紀の教父テルトゥリアヌスは言葉を残しました。教会は殉教者たちが流した血を礎として成り立っていますが、それは悲惨な死を嘆き悲しむためではなく、むしろ聖霊の勝利、すなわち神の計らいの現実の勝利を、世にある教会が証しし続けていくという意味においてであります。殉教者たちこそは、「お言葉ですから、網をおろしてみましょう」と答え続けて信仰の道を歩んだ方々です。信仰の先達である殉教者たちに崇敬の祈りを捧げるとき、その勇敢な死に賞賛の声を上げるだけでなく、殉教者たちの生きた姿勢と信仰におけるその選択の勇気に、わたしたち自身がいのちを生きる希望の道を見いださなくてはなりません。

ところで2月8日は、聖ヨゼフィーナ・バキータの祝日です。彼女は1869年にアフリカはスーダンのダルフールで生まれ、7歳にして奴隷として売り飛ばされ、その後イタリアで1889年に自由の身となり、洗礼を受けた後にカノッサ会の修道女になりました。1947年に亡くなった彼女は、2000年に列聖されています。

人身売買の被害者であった聖人の祝日に当たり、女子修道会の国際総長会議(UISG)は、2月8日を「世界人身取引に反対する祈りと啓発の日」と定めて、人身取引に反対する啓発活動と祈りの日としています。

聖バキータの人生に象徴されているように、現代の世界において、人間の尊厳を奪われ、自由意思を否定され、理不尽さのうちに囚われの身にあるすべての人のために、またそういった状況の中で生命の危険にさらされている人たちのために祈りたいと思います。人身売買は過去のことや我々とは関係のないところで起きているわけではありません。人間の尊厳を奪われ、自由意志を尊重されることなく、隣人としてではなくモノのように扱われる人は、わたしたちが生きている世界と無関係ではありません。

神からの賜物であるいのちは、その始まりから終わりまで、例外なく守られ、神の似姿としての人間の尊厳は、徹底的に尊重されなくてはなりません。