大司教

週刊大司教第百九十二回:主の洗礼の主日

2025年01月14日

この数日、大雪に見舞われている地域のみなさまに、お見舞い申し上げます。

主の洗礼の主日です。降誕祭は終わり、月曜日から典礼の暦は年間になります。(上の写真:東京カテドラル聖マリア大聖堂の洗礼盤。聖年開幕のミサで)

2025年最初の、カテドラル以外の小教区でのミサとして、1月10日金曜日の午前10時に、板橋教会でミサを捧げました。主任を務められる久富神父様にお会いする用事があったのですが、わたしのこの数週間のスケジュールではちょうどこの日しか空いておらず、せっかく午前中にミサがある日なので、司式させていただきました。お集まりいただいたみなさまとは、ミサ後に、茶話会で新年のご挨拶をさせていただきました。

板橋教会の聖堂内の柱には、聖人の御像がいくつか安置してあるのですが、その中の一つが、わたしの霊名であるタルチシオです。タルチシオの像というのはなかなか珍しく、ヨーロッパでは侍者の保護の聖人とされており、わたしが生まれたばかりの時に洗礼を授けてくださったスイス人の宣教師が、将来しっかりと侍者になるようにと願ってこの洗礼名をつけてくださったと両親から聞いています。その御像の前で一枚。上の写真です。

以下、11日午後6時配信、週刊大司教第192回、主の洗礼の主日のメッセージです。
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主の洗礼の主日
週刊大司教第192回
2025年1月12日前晩

主の洗礼を記念するこの日、パウロはテトスへの手紙で、わたしたちの救いは、「キリストが私たちのためにご自身をささげられた」ことを通じて「あらゆる不法から贖いだし」たことによって与えられた恵みであることを強調します。そして「この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現した」と記します。救いは、わたしたちが正しく生きたことに対しての対価として与えられるような類いものではなく、徹頭徹尾、神からの一方的な恵みです。そのこと自体がわたしたちが正しく生きることの意味を薄めることはありませんが、同時に、正しく生きたからご褒美として救われるというような、人間本位ではないことを心に刻みましょう。救いは、神ご自身の苦難を通じて与えられ、それが水と聖霊による洗礼によって実現した、神からの恵みです。

ルカ福音は、公生活を始めるにあたって、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことを記しています。ヨハネ自身がメシアを待望する人々に対して明確に告げたように、水による洗礼は罪のゆるしの象徴であって、主ご自身が与える聖霊と火による洗礼とは比較にならないものであります。しかし主イエスは、人間となられ、わたしたちとともに歩まれることの意味を明確にし、その行為が自らの意思で行われたまさしく贈り物であることを告げるために、公生活を始めるにあたってヨハネの水による洗礼を受けるという選択をされます。それは同時に、神ご自身が人類の罪を背負ってともに歩まれることになるのだという事実を明確にするためでもありました。神はわたしたちとともに歩まれます。

その選択を祝福するように聖霊が鳩のように降り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの」との御父の声が響き渡ります。御子イエスの人生の歩みが、天地を創造された御父の御旨に完全に従うものであることを明示する言葉です。御父と御子と聖霊は一体なのですから、イエスの言葉と行いは、三位一体の神のことばと行いそのものであります。

人間としての人生における苦しみを通じてわたしたちを贖ってくださった主は、同じ道を歩むようにと、わたしたちを招いておられます。ただその道を一人で孤独に歩めとは命じておられません。主イエスご自身が、わたしたちと歩みを共にし、わたしたちの声に耳を傾け、わたしたちを支えてくださいます。わたしたちが同じように、ともに歩く兄弟姉妹の声に耳を傾け、支え合い、歩みを共にすることを求めておられます。そのことは同時に、わたしたちこそが主とともに歩み、主の声に耳を傾け、主を支えなくてはならないことも意味しています。まさしくわたしたちがシノドス的な教会共同体となるように、公生活のはじめに、主は、ともに歩むことの意味を自ら示してくださいました。