大司教
週刊大司教第百九十回 聖家族の主日
2024年12月30日
2025年聖年は、12月24日の夜半ミサにおいて教皇様が聖ペトロ大聖堂の聖年の扉を開いたことによって始まりました。世界中の司教座聖堂では、聖家族の主日に、聖年の開始を告知するミサを捧げるように定められており、東京教区では12月29日午後3時、聖家族の主日の午後に、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、みさをささげます。なお当日は、ミサの開始前に外に集まり、一緒になって入堂する儀式が行われる予定ですので、どうぞご参加ください。(下の写真は、今回開かれた聖年の扉。撮影は10月のシノドスの最中です)
司祭団は、教区司祭と宣教会司祭、そして修道会司祭がともに集い、一年の感謝の祈りを捧げ「テ・デウム」を歌うことを習わしとしており、クリスマス後から大晦日までの間に、それぞれの教区の事情に応じて行われています。東京教区では、主の降誕の翌日に行われてきましたので、今年も12月26日の午前11時に司祭団が東京カテドラル聖マリア大聖堂に集まり、聖体賛美式を行い、一年の締めくくりに感謝を込めて「テ・デウム」を歌いました。昨年まではラテン語で歌っていましたが、ラテン語で通して歌える司祭が減ってきたこともあり、今年からは日本語で歌うことにいたしました。
今年はクリスマス頃にかけて帰天される信徒の方が相次いだようで、26日に葬儀が入った司祭も多数おられ、全員の参加とはなりませんでしたが、多くの司祭、とりわけ教区司祭だけではなくて修道会や宣教会の司祭たちが参加してくださったことに感謝したいと思います。
東京教区における活動は、教区司祭団、修道会、宣教会がそれぞれ独自にしているのではなくて、一緒になって司祭団を形成して取り組んでいることを実際に感じることができますので、様々な国出身の様々な共同体の司祭が集まってくださったことに感謝します。
以下、28日午後6時配信、週刊大司教第190回、聖家族の主日のメッセージ原稿です。
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聖家族の主日
週刊大司教第190回
2024年12月29日前晩
皆様、主の降誕おめでとうございます。
クリスマスにつきものの馬小屋の飾りでは、誕生した幼子が飼い葉桶に寝かされ父ヨセフと母マリアの愛のまなざしによって育まれ守られているさまが描かれています。受肉した神のみ言葉は、家族のうちに誕生し、家族によって守られ、育まれました。降誕祭直後の主日は、このいのちを育んだ家族を黙想し、家族への祝福を祈る日であります。
聖家族は、驚くべき神の言葉に従順に従い、その御旨の実現のために人生を捧げられたヨセフとマリアという偉大な二人と、その結果として誕生した神のみことばの受肉によって成り立っています。すなわち、神による祝福は、神のみ旨への従順によってのみもたらされることが示されています。
ルカ福音は、イエスが十二歳になったときの聖家族の旅路を記しています。過越祭のためにエルサレムに上ったとき、その帰路、少年イエスがエルサレムに残り、家族と離れてしまったときの逸話です。
三日目に見出されたイエスは、自らが神の子であることを明示され、真の家族は神のもとにあることを示されますが、同時にイエスは、神の掟を守る二人から離れることなく、そのもとにとどまるために、両親と一緒に旅を続けます。神のよって祝福された人生は、神と共に歩む旅路であります。聖家族の旅路は、神のことばと共に亜歩む巡礼の旅路でありました。
教皇さまは12月24日に聖年の扉を開かれ、聖年を開始されました。世界中の各教区の司教座聖堂では、聖家族の主日にミサを捧げ、聖年の開始を告げるようにと求められています。25年に一度の聖なる年が始まります。
この聖年のテーマは、「希望の巡礼者」とされていますが、そこには、希望というテーマと旅を歩むというテーマの二つ、現代社会に生きる教会にとって重要な二つのポイントが示されています。
教皇さまは聖年の開始を告げる大勅書「希望は欺かない」の冒頭に、「すべての人は希望を抱きます。明日は何が起こるか分からないとはいえ、希望は良いものへの願望と期待として、ひとり一人の心の中に宿っています(1)」と記し、この世界を旅し続けるわたしたちの心には、常に希望が宿っていることを指摘されます。同時に教皇さまは、「希望の最初のしるしは、世界の平和と言いうるものです。世界はいままた、戦争という惨劇に沈んでいます。過去の惨事を忘れがちな人類は、おびただしい人々が暴力の蛮行によって虐げられるさまを目の当たりにする、新たな、そして困難な試練にさらされています(8)」と指摘され、この数年間の世界の現実が、いかにその希望を奪い去り、絶望を生み出すものであるのかを強調されています。いま世界は希望を必要としています。教会は絶望ではなくて、希望を生み出す源となることが求められています。
教皇さまは、「聖年が、すべての人にとって、希望を取り戻す機会となりますように。神のことばが、その根拠を見つけるのを助けてくれます(1)」と、人となれらわたしたちのうちに住まわれた神のみことばに耳を傾け、希望を見いだすよすがとするように勧めておられます。教会は希望を生み出しているでしょうか。暴力や排除や差別によって、教会が絶望を生み出すものとなっていないでしょうか。希望を生み出す旅路を、この一年続けて参りましょう。