大司教
週刊大司教第百九十一回:主の公現の主日
2025年01月08日
一月の最初の日曜日は公現の主日です。
今年は公現の主日が1月5日で、主の洗礼が1月12日の主日となっているので、降誕節が1月12日まで続きます。典礼暦年に関する一般原則で、本来1月6日の公現の祝日は、1月2日から8日の間の主日に移すことが認められており、同時に、1月6日直後の主日は主の洗礼と定められています。そうすると、例えば2024年のように1月2日から8日の間の主日が7日なので、そこを主の公現とすると、その日は1月6日の直後の主日になるので、公現と主の洗礼の優先順位から、7日を主の公現とし、翌日月曜日を主の洗礼とします。今年はちょうど良いカレンダーの並びなので、公現と主の洗礼が、1月最初の日曜と2番目の日曜になりました。
聖年が始まったことで、ローマなどへの巡礼がないのかというお問い合わせをいくつかいただいております。日本の司教協議会としての公式巡礼団を募集することは決まっており、時期としては、わたしの枢機卿としての名義教会着座式を予定している10月9日あたりにローマで合流できるようにして、10月初旬にいくつかのコースを企画することで調整中です。またそれ以外にも、聖座の福音宣教省が関わっている大阪万博のバチカンの展示(イタリアのパビリオンに同居予定)にあわせて、司教協議会としての聖年行事を行うことも検討中です。万博に関しては4月、巡礼は10月を目指していますので、早急に調整を進め、お知らせできるようにいたします。なおそれ以外にも、いくつかの教区や団体で、聖年中のローマ巡礼を企画されていると伺っています。
以下、4日午後6時配信の週刊大司教第191回目、公現の主日のメッセージ原稿です。
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主の公現の主日
週刊大司教第191回
2025年1月05日前晩
皆様、新年明けましておめでとうございます。
占星術の学者たちの言葉を耳にしたときの、ヘロデ王の不安を、マタイ福音は伝えています。占星術の学者は、新たなユダヤ人の王が誕生したと告げています。それを告げられている相手、すなわちヘロデ王は現役のユダヤの王様です。心は乱れ、不安に駆られたと福音は記しています。自分が手にした地位と名誉を脅かすものが現れたと告げられているのですから、ヘロデ王の心は不安に満ちあふれたことでしょう。その不安は、単に地位が脅かされることへの不安にとどまらず、神の真理による支配の前では、自らの不遜さが明らかになってしまうことへの不安でもあります。人間の欲望に基づいた傲慢な支配におごり高ぶっている姿が暴かれることで、ヘロデ王は自らが罪の状態にあることが明らかになってしまいます。そこに不安が生じます。
わたしたち自身はどうでしょうか。人間の欲望に支配されて傲慢さに満ちあふれていないでしょうか。飼い葉桶に寝かされた神のことばの受肉のその弱々しい姿が、謙遜さこそ真の力であることをわたしたちに教えています。
困難な旅路を経てイエスの元にたどり着いた占星術の学者たちは、暗闇に輝く小さな光にこそ、人類の希望があることを確信します。学者たちはその確信に基づいて、すべてを贈り物として神にささげ、神の支配に従うことを表明し、その後も神の導きに従い、人間の傲慢さの元に戻ることなく神の意志に基づいて行動していきます。
教会はその小さな謙遜さのうちにある、神の希望の光を受け継ぎました。人間の欲望に支配された組織としてではなく、神の真理の光を小さくとも輝かせる存在でありたいと思います。
神が与えられた賜物であるいのちは、誕生した幼子が守られ育まれたように、わたしたちに同じように守り育む務めが与えられています。いのちはその始めから終わりまで、例外なく守られなければなりません。また守るだけではなく、神の似姿としての人間の尊厳は、常に尊重されなくてはなりません。
毎年のはじめに教皇様は世界平和の日のメッセージを発表されています。今年は「わたしたちの罪をお許しください。平和をお与えください」をテーマとされています。
メッセージ冒頭で教皇様は、「私は特に、過去のあやまちによって重荷を負わされ、他者の裁きによって攻撃され、自分の人生にかすかな希望さえ見いだせないと感じている人たちのことを考えている」と記され、始まったばかりの「希望」をテーマとした聖年において、周辺部に追いやられ排除されることの多い多くの人へ心を向けています。
その上で教皇様は、聖ヨハネ・パウロ二世教皇の「構造的な罪」を引用しながら、世界で起きている人間の尊厳をおとしめている様々な出来事に、人類全体が何らかの責任を感じるべきだと指摘します。
今年のメッセージで教皇様は、国家間の負債の軽減、いのちの尊厳を守ること、武力のための資金の一部を飢餓などの軽減のために使うことなど、具体的な提案をされています。
わたしたちは、何に基づいて生きているのでしょう。人間の傲慢な欲望か、神の真理に基づく希望か。あらためて見つめ直してみましょう。