大司教

週刊大司教第百八十一回:年間第二十二主日

2024年09月02日

あっという間に8月は終わり、9月が始まります。

この数日の、台風に伴う大雨の影響で、被害を被られた皆さまに、心からお見舞い申し上げます。

今年の9月1日は、被造物を大切にする世界祈願日です。この日から10月4日までを、日本の教会は「すべてのいのちを守るための月間」と定めています。司教協議会の「ラウダート・シ」デスク(責任司教は成井司教様)では、呼びかけのメッセージを発表しています。また教皇様も、世界祈願日にあたって、「被造物とともにあって、希望し行動しよう」というタイトルのメッセージを発表されています。

さらに日本の司教団では、司教団のメッセージとして、「見よ、それはきわめてよかった」を発表しており、書籍でも頒布していますが、中身が重要ですのでテキストを公開しています。是非ご一読ください。

日本カトリック司教協議会(教会法上の一定地域の司教たちの集まりの名称)には、様々な委員会やデスクなどがあり、事務局であるカトリック中央協議会(日本の法律に基づいた宗教法人の名称)を通じて、それぞれのテーマの担当が様々なメッセージを発表しています。

そういったメッセージの中でも「司教団メッセージ」と呼ばれるものは、現役の司教全員が賛成した一つの地域の司教団の総意を表すメッセージとして、一番重要な意味を持つメッセージとお考えください。ですから、「司教団メッセージ」は、それほど頻繁に出されることはありません。

また司教団も、数年でガラリとメンバーが替わります。例えば2015年のアドリミナに出かけた日本の司教団と、今回2024年のアドリミナに出かけた司教団のメンバーは、10名が入れ替わっています。ですので、前回の司教団メッセージである「いのちへのまなざし、増補新版」と今回の「見よ、それはきわめてよかった」では、司教団のメンバーが替わり、そのトーンなどに違いが出ているのを感じ取っていただければと思います。

なお「ラウダート・シ」デスクが主催して、東京教会管区では、同メッセージ発表に伴う出版記念シンポジウムを、9月7日に、東京四谷のニコラ・バレ修道院を会場に、午前10時半から昼過ぎまで開催いたします。当日は管区内の司教のうち、わたしや成井司教を含め数名も参加します。詳細は、こちらの東京教区ホームページをご覧ください。(東京教会管区:札幌、仙台、新潟、さいたま、横浜、東京の各教区で構成)

以下、8月31日午後6時配信、週刊大司教第181回、年間第22主日のメッセージ原稿です。
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年間第22主日
週刊大司教第181回
2024年9月1日前晩

9月1日は、被造物を大切にする世界祈願日であり、日本の教会は、本日から10月4日、アシジの聖フランシスコの祝日までを、「すべてのいのちを守るための月間」と定めています。

教皇様は今年の祈願日にあたりメッセージを発表され、そのタイトルを「被造物とともにあって、希望し行動しよう」とされています。

教皇様はメッセージで、「キリスト者の生き方とは、栄光のうちに主が再臨されるのを待ち望みつつ、愛のわざに励む、希望に満ちあふれた信仰生活です。・・・信仰は贈り物、わたしたちの内なる聖霊の実なのです。けれども同時に、自由意志で、イエスの愛の命令への従順をもって果たすべき務めでもあります。これこそが、わたしたちがあかしすべき恵みの希望です」と記します。

その上で教皇様は、「イエスが栄光のうちに到来するのを希望をもって辛抱強く待ち望んでいる信者の共同体を、聖霊は目覚めさせておき、たえず教え、ライフスタイルの転換を促し、人間が引き起こす環境悪化を阻止して、変革の可能性の何よりのあかしとなる社会批評を表明するよう招くのです」と呼びかけておられます。

司教団の優先的取り組みとして、司教協議会には「ラウダート・シ・デスク」が設けられており、その責任者である成井司教様は、「月間」の呼びかけで、「イエスのセンス・オブ・ワンダー、驚きに満ちたまなざしは、わたしたちが総合的な(インテグラル)エコロジー、すなわち神と、他者と、自然と、そして自分自身と調和して生きる道筋を示しています。今年のすべてのいのちを守るための月間の間、イエスの驚きに満ちたまなざしで自分を取り巻くいのちのつながりに目を向けてみませんか」と呼びかけておられます。司教団が先般発表したメッセージ、「見よ、それはきわめてよかった――総合的な(インテグラル)エコロジーへの招き」を、是非ご一読ください。

マルコ福音は、ファリサイ派と律法学者が、定められた清めを行わないままで食事をするイエスの弟子の姿を指摘し、掟を守らない事実を批判する様が描かれています。それに対してイエスは、ファリサイ派や律法学者たちを「偽善者」と呼び、掟を守ることの本質は人間の言い伝えを表面的に守ることではなく、神が求める生き方を選択するところにあると指摘されます。

さまざまな掟や法が定められた背後にある理由は、人を規則で縛り付けて自由を奪うためではなく、神の望まれる生き方に近づくための道しるべであること思い起こし、人間の言い伝えではなく、神の望みに従って道を歩むことが、掟や法の「完成」であります。すなわち、使徒ヤコブが記しているように、その掟や法を定められた神のことばを、馬耳東風のごとく聞き流すのではなく、「御言葉を行う人」になることこそが、求められています。

神がそのいつくしみの御心を持って愛のうちに創造された全被造界は、わたしたちに守り耕すようにと委ねられたものであって、好き勝手に浪費するために与えられてはいません。わたしたちは神から与えられた使命を忠実に果たす、本当の意味での神の掟を守るものでありたいと思います。