大司教
週刊大司教第百七十五回:年間第十五主日
2024年07月16日
七月も半ばに入り、暑い日が繰り返し不安定な天候が続いています。大雨の被害を受けられた方々に、お見舞い申し上げます。
今年は、ちょうど20年前、新潟の司教に任命された直後のこの時期、新潟の三条市周辺で大雨による洪水被害がありました。被災地に、当時の主任であった佐藤神父様や、故川崎神父様と、自転車に乗って出かけて行ったことを思い起こしております。
一週間前の土曜日、晴天で暑い日でしたが、カトリック府中墓地において、三名の東京教区司祭の納骨式を執り行いました。府中墓地に入ると過ぎ左手に事務所や聖堂がありますが、その前にあるのが、東京教区司祭の共同納骨墓です。
このたびの納骨式は、2024年2月13日に帰天されたパドアのアントニオ泉富士男神父、2024年4月11日に帰天された使徒ヨハネ澤田和夫神父、2024年5月20日に帰天された使徒ヨハネ小宇佐敬二神父の三名でした。この三人の司祭方は、小教区でも活躍されましたが、同時にそれぞれ独特な使徒活動において大きな功績を残されました。その中でも澤田神父様にあっては104才の長寿を全うされ、長年にわたり独自の霊性で多くの人に深い思い出を残されました。
以下、13日午後6時配信、週刊大司教第175回、年間第15主日のメッセージ原稿です。
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年間第15主日前晩
週刊大司教第175回
2024年7月14日
マルコ福音は、イエスが十二人の弟子たちを呼び集め、二人ずつ組にして、福音宣教のために送り出したことを記しています。あらためて強調するまでもなく、わたしたちの信仰は、共同体によって成り立っています。もちろん一人ひとりの個人的な回心と決断が不可欠であるとはいえ、わたしたちの信仰は常に共同体の中で育てられ、共同体を通じて具体的に実現していきます。
教会とは礼拝の場所のことではなく、共同体です。
いま進められているシノドスの道のりは、まさしく、教会が共同体によって成り立っていることをわたしたちに思い起こさせ、その共同体における共同の識別が不可欠であることを自覚するように促しています。
今日の福音に記されている、イエスが弟子たちをひとりずつではなく二人の組で派遣された事実は、宣教の業が個人プレーなのではなくて、共同体の業であることを明確にさせます。また、準備万端整えられたプログラムを実施するのではなく、日々の生活における他者との交わりにあって、支え合いと分かち合いを通じて福音が伝わっていくことが示されています。福音は共同体の交わりのうちに実現します。
シノドスの歩みが求めている、互いに耳を傾けあい、互いに支え合い、互いに祈り合うことこそは、わたしたちの信仰が共同体の中で育てられ、共同体の中で実現し、共同体を通じて告げ知らされていくことの具体化の道です。
教皇フランシスコは「福音の喜び」に、「神は人々を個々としてではなく、民として呼び集めることをお選びになりました。ひとりで救われる人はいません(113)」と記して、教会は共同体として救いの業にあずかっていることを強調されます。
シノドス第一会期の最終文書には、「共同体」と言う言葉が80回以上使われ、シノドスの歩みがまさしく共同体としての教会のあり方を問いかけていることを明確にしています。その第三部、「絆を紡ぎ、共同体を築く」には、こう記されています。
「イエスが弟子たちを養成した仕方は、わたしたちが従うべき模範です。イエスは単に教えを授けるだけでなく、弟子たちと生活をともにしました。・・・福音書からわたしたちは、養成とは、単に自分の能力を強化するのみ、またはそれを中心にするだけではなく、敗北や失敗さえも実りあるものとするみ国の「論理」へ回心することだと学ぶのです」
その上で最終文書は、「聖なる神の民は、養成の対象であるだけでなく、何よりもまず、養成にとって共同責任のある主体です。・・・一人ひとりが自分のカリスマと召命に従って、教会の宣教に能動的に参加できるようにすることなのです」と記しています。
わたしたちは弟子たちのように、主御自身によってこの世界に派遣されています。その派遣は、わたしたちが「自分のカリスマと召命にしたがって、教会の宣教に能動的に参加」することで実現します。そのためにもわたしたちは、信仰を育むわたしたちの信仰共同体が、シノドス的な歩みをする共同体であるのかどうか、真摯に振り返ってみる必要があります。