大司教
週刊大司教第百七十四回:年間第十四主日
2024年07月08日
年間第14主日です。
7月の16日から19日まで、司教総会が開催されます。毎年、2月と7月の二回、ほぼ一週間の日程で全国の司教が集まり、様々な課題について司教の意見を交換する機会となります。現在その議題を最終調整しているところですが、今回は、一年先の2025年6月以降に任期が始まる司教協議会の会長などの役職や常任委員会の委員の選挙も行われます。なぜこんなに早く選挙をするのかと言えば、それは次に定時の総会をする予定が来年の2月であって、そこで選任していたのでは、委員会の担当者などの諸般の調整が6月に間に合わなくなるからです。
ちなみに、司教協議会というのは教会の内部の組織としての名称で、各教区の教区長である司教は任命権者の教皇様に直結しており独立していますが、その地域や国に共通の課題に取り組んだり調整を図ったりするための、いわば一定の地域の司教の協力互助組織として、司教協議会は存在しています。普遍教会の内部の組織であるので、名称は、日本カトリック司教協議会です。
もう一つのカトリック中央協議会というのは、日本における法律に基づいた法人組織の名称です。日本の法律に基づいて日本にあるので、その名称には「日本」はついていません。なお日本の法律に基づく法人としては、日本にある15の教区はそれぞれが独立した宗教法人であり、また修道会もそのほとんどが、それぞれ独立した宗教法人となっています。また教会が関わる様々な事業体も、そのほとんどが日本の法律に基づいて学校法人や社会福祉法人などなどとして独立した法人組織になっています。
ところでこの司教総会に合わせて、日本のシノドス特別チームは、シノドスへの取り組みの今後の道筋を明確にするために、ハンドブックを作成しました。製本したハンドブックも各教区などにサンプルとして無料で配布しますが、主に中央協議会のホームページからダウンロードしてご利用いただけるように考えております。これは公表した段階で、またお知らせします。
「霊における会話」をしばしば耳にするが、実際にどこでそれをしているのか分からないという質問も届いています。即座にどこでもそれを始めるとが可能ではないことも、心に留めてください。「霊における会話」ができれば、シノドスの道が完成するということではないのです。それは、共同で方向性を見極める(聖霊の導きの共同識別)ための強力なツールであることは間違いないのですが、それだけですべてが完成するわけでもありません。
これまでもお話をする機会があれば繰り返していますが、今回のシノドスで教皇様が目指しているのは、まず何か新しいことを決めて始めることではありません。また教会の組織を改革することでもありません。教皇様が目指しているのは、息の長いスパンで考えて、教会の体質を改善することです。教会がシノドス的な体質となるために、今後も時間をかけて、徐々に体質改善に取り組もうとされています。
東京教区でも、様々なメディアで語りかけていますが、同時に宣教司牧評議会の皆さんや、司祭の集まりなどで、霊における会話の実践やシノドス的な歩みについて、これから何ヶ月もかけて、繰り返し繰り返し、取り組んでいきます。
その息の長い、そして少しづつの取り組みを通じて、徐々にそれが教区全体に浸透していくようにしたいと思います。そうでないと、一時的なイベントで終わってしまいます。最終的には、今年の10月の第二会期が終わり、その答申に基づいて、教皇様が来年に発表するであろうシノドス後の使徒的書簡が、これからのわたしたちの羅針盤になろうかと思います。ですので、焦ることなく、できることから徐々に、浸透させていく忍耐を持ってくださることを希望します。
なお、今年10月の第二会期のための作業文書は、来週中にもバチカンの事務局から発表される見込みです。できる限り早急に、翻訳して公開できるように努めます。
東京都では、7月7日が都知事選挙の投票日です。せっかく手にしている権利です。投票を通じて意思表示をする権利は無駄にしないようにいたしましょう。
以下、6日午後6時配信の週刊大司教第174回目、年間第14主日のメッセージ原稿です。
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年間第14主日B
週刊大司教第174回
2024年7月7日前晩
正常性バイアスという言葉があります。災害などに直面しても、いつもの生活の延長上で物事を判断し、都合の悪い情報を無視することで、根拠のない、「自分は大丈夫」、「まだまだ大丈夫」などという思い込みが、災害時の被害を大きくすることだと、ネット上などにはその意味が記載されています。
多くの場合わたしたちは、人生の中で大きな変化を嫌います。とりわけ予測できない出来事に遭遇したとき、判断するための自らの能力を出来事が超えてしまうため、これまでのいつもの経験に基づいて判断しようとするために、実像を把握することができません。
「わたしは弱いときにこそ強いからです」と逆説的な言葉をコリントの教会への手紙に記すパウロは、人間の思い描く理想とは異なる、いわば逆説の中に、神の真理は存在していることを指摘しています。わたしたちの判断能力を遙かに超える神の働きを知るためには、人間の常識にとらわれていては、実像を把握することはできないことをパウロは指摘します。
いわば信仰における正常性バイアスを捨て去り、人間の力の限界を認めたときに初めて、「キリストの力がわたしのうちに宿」り、その本来の力を発揮するのだと、パウロは指摘します。
マルコ福音に記されたイエスの物語は、この事実を明確に示します。目の前に神ご自身がいるにもかかわらず、人々の心の目は、人間の常識によって閉ざされ、神の働き直視することができません。判断する能力を遙かに超えることが起こっているために、都合の悪い情報から目を背け、自分の常識の枠内で判断しようとするのですから、神の子の言葉と行いを、故郷の人々は理解することができません。
思い上がりのうちに生きている人間は、簡単に過去の常識の枠にがんじがらめにされ、自分たちが正しいと思い込んで選択した行動が、実際には神に逆らう結果を招いていることにさえ気がつきません。
昨年10月にバチカンで開催されたシノドス第一会期の際に、教皇様は幾たびも会場に足を運び、集まったわたしたちに、「聖霊が主役です。あなた方が主役ではありません。あなた方が何をしたいのかを聞きたいのではありません。政令が何を語りかけているのかを聞きたいのです」と繰り返されました。
教皇様は、「福音の喜び」の中で、「宣教を中心とした司牧では、『いつもこうしてきた』という安易な司牧基準を捨てなければなりません(33)」と呼びかけておられました。
いま教会に必要なことは、前例にとらわれて自らの常識の枠にがんじがらめになることではなく、自らの弱さを認め、神の働きを識ることができるように、聖霊の導きに勇気を持って身を任せることです。