大司教

週刊大司教第百七十二回:年間第十二主日

2024年06月24日

年間第12主日となりました。本日の日曜日は、聖ペトロ使徒座への献金の日でもあります。教皇様が様々に行う支援活動や福音宣教活動ですが、特に近年、支援援助省を独立させてからは、直接的な支援のために長官のクライェウスキ枢機卿を、例えばウクライナへ直接派遣したりして積極的に展開されています。かつてこのクライェウスキ枢機卿の部署の管轄は、教皇様の祝福の文書をリクエストがあった世界各地に送付する業務が主でした。いまでもその業務は続けられており、様々な機会に、教皇様からの祝福の文書を目にすることがあります。その部署に教皇様は、直接的な援助をさせることにして、枢機卿を責任者として、一つの役所として独立させました。そういった教皇様の活動を支えるのが、世界中で本日行われる、聖ペトロ使徒座への献金です。6月29日の聖ペトロ聖パウロの祭日の直前の日曜日に行われることになっていますので、今年は23日の日曜日です。教皇様の活動を支えるための献金をお願いいたします。

なお東京教区では、同祭日の近くの月次司祭集会の日に、司祭が集いミサを捧げ、その年に叙階金祝銀祝を迎える司祭への祝福をともに祈ることになっています。今年は、24日の月曜日にこのミサが捧げられます。なお金銀祝を迎える司祭については、別途、教区のホームページなどでお知らせします。

東京都では都知事選挙が始まりました。世界の各地に、この民主的で自由な選挙を手に入れるために闘わざるを得ない人たち、それがないために尊厳をないがしろにされている人たちが多くいることを考えるとき、日本では当たり前のように行われる選挙を、面白おかしく、あえて言えば愚弄するような行動があることは、残念と言うよりも、悲しいことです。とはいえ、何らかの形で選挙の存在と意味を考える機会にもなっていると前向きに捉え、ひとりでも多くの人が忘れることなく権利を行使することを願っています。

以下、22日午後6時配信、週刊大司教第172回、年間第12主日のメッセージ原稿です。
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年間第12主日
週刊大司教第172回
2024年6月23日前晩

人生を生きていく中で、わたしたちはしばしば困難に直面し、自分でなんとか解決できることもあれば、誰かの助けがなければ立ち上がることすらできないほどの危機に直面することもあります。

なかでも、いのちの危機をもたらす暴力的な状況に置かれたとき、例えば戦争が続いているウクライナや、多くの人がいのちの危機に直面しているガザの現実などの中で、どれほどのいのちが、今この瞬間に、誰かの助けが必要だと感じていることでしょう。助けを必要としている人がこれだけ世界には存在しているのに、世界のリーダーたちはその危機的状況を解決するよりも、深刻化させるために知識と資金を費やしているようにしか見えません。

「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」

マルコ福音に記されているこの弟子たちの叫びは、今の時代を生きているわたしたちの叫びでもあります。いのちの危機に直面し、解決の糸口が見えないまま取り残されているわたしたちにとって、現実はまさしく、荒波に翻弄される船の中に取り残された弟子たちの姿であります。

世の終わりまでともにいてくださると約束された主は、恐れにとりつかれ、孤独のうちにいのちの危機に直面している一人ひとりに対して、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と語りかけます。それは決して、信仰が弱いからだめなのだなどと批判する言葉ではありません。それはまさしく荒れ狂う湖に翻弄される船の中には、弟子たちだけがいたのではなく、主御自身もともにおられた事実を、改めて弟子たちに思い起こさせる言葉であります。「わたしはここに共にいる」と、慰めを与えるいつくしみの言葉であります。

そして今日、いのちの危機に直面し、恐れにとらわれるわたしたちに対して、主は改めて、「わたしはここに共ににいる」と、慰めの言葉を与えてくださいます。主は共におられます。

2025年の聖年を告示する大勅書「希望はわたしたちを欺くことがありません(ローマ5.5)」を発表された教皇様は、わたしたちがこの世界にあって「希望の巡礼者」として生きることを呼びかけます。特に教皇様は、この聖年を主が与える「時のしるし」を読み取る機会としながら、わたしたちが悪と暴力に打ち負かされてしまったと思い込んで恐れにとらわれる誘惑に勝つために、今日の世界に存在する善に目を向けることを忘れないように勧められます。この世界は、絶望だけに満ちあふれているのではなく、希望を生み出す善は存在していることを、教皇様は強調されます。

その上で、「時のしるし」を良く読み取り、それを「希望のしるし」に変容するようにとわたしたちを招いています。

わたしたちの一番の希望の源は、いのちの与え主である主御自身が、いつまでもわたしたちと共にいてくださるという確信です。わたしたちはいのちの主から見捨てられることがないという確信です。主は絶望や苦しみの中にあるわたしたちと、いつも共におられます。