大司教

週刊大司教第百七十一回:年間第十一主日

2024年06月17日

年間第11主日です。

この一週間は、久しぶりにアジアのカリタスのメンバーの総会に参加しました。2019年5月までの8年間、わたし自身がカリタスアジアの総裁でしたから、この総会には5年ぶりの参加です。これは別途、記事にして掲載します。

16日の第11主日には、東京カテドラル聖マリア大聖堂に所在する韓人教会の堅信式が、いつもの日曜12時からのミサで行われ、私が司式させていただきました。韓国語はできないので、韓国語に日本語を交えたミサとなりました。堅信を受けられた方々に聖霊の豊かな祝福を祈ります。

15日土曜日の午後には、教区の宣教司牧評議会も開催されました。昨年までの評議会からの答申を受けて設置された作業部会が、宣教協力体の見直しの提言作成のための作業を進めていますが、現在の宣教司牧評議会は、シノドス的な教会を実現するために、東京教区でどのような取り組みを進めるかを考察するために、実際に霊における会話を体験したりする中で、教皇様が目指している教会の姿を体感として持ち、それをさらに教区に広げていくことを目指しています。このプロセスは、教皇様自身がおっしゃるとおり、一朝一夕で実現する者ではなく、いわば教会全体の体質の改革ですので、息の長い、しかも地道な取り組みが求められます。

今回の宣教司牧評議会では、先般、小教区で働く司祭のためのシノドスの集いがローマで開催された際に、日本の代表として参加された、日本の教会のシノドス特別チームのメンバーでもある大阪高松教区の高山徹神父様にお話をいただいて、そのあとに分かち合いとなりました。

以下、16日午後6時配信、週刊大司教第171回目、年間第11主日メッセージ原稿です。
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年間第11主日
週刊大司教第171回
2024年6月16日前晩

炎上商法などと言う言葉をネット上では耳にすることがありますが、今の時代、地味で緻密な論理の積み重ねよりも、大げさなパフォーマンスで注目を浴びることが成功につながると考えられているのかもしれません。

福音宣教の使命を与えられているわたしたち教会も、パッと大きなイベントでも催して、多くの人たちの耳目を惹き、一気に社会をひっくり返せたらどんなに良いかと夢見ますが、しかし今日の福音は、神の国とは地道な積み重ねの上に成り立っていることを、明確に示しています。

「神の国を何にたとえようか。・・・それは、からし種のようなものである」と語るイエスの言葉を、マルコ福音は伝えています。

取るに足らない小さな種から始まって、しかし成長して行くにつれ「葉の陰に空の鳥が巣を作れるほどの大きな枝を張る」までになる。その過程を述べて福音は、神の視点がいかに人間の常識的視点と異なるのかを教え、派手なパフォーマンスではなく、神の計画に従った地道な積み重ねが重要であることを教えています。

今年4月の世界召命祈願日のメッセージで教皇様は、来年の聖年のテーマでもある「希望の巡礼者」に触れ、それぞれに固有の召命を見いだす道を巡礼の旅路になぞられて、次のように記しています。

「自分に固有の召命を再発見しつつ、聖霊の多様なたまものを結び合わせ、世にあって、イエスの夢の運び手となり、証人となるために、聖年に向かって「希望の巡礼者」として歩みましょう」

その上で教皇様は、目的地ははっきりしているが、そこに到達するためには、人目を惹くパフォーマンスではなく、地道な一歩が必要だと指摘して、こう述べています。

「その目的地に達するには、目の前の一歩に集中することが必要で、足取りが重くならないよう無駄な荷を下ろし、必要なものだけをもち、疲れ、恐れ、不安、暗闇が、歩み始めた道の妨げにならないよう、日々頑張らなければなりません」

心に主との出会いへの希望を抱くことで、わたしたちは、日々の小さな苦労が決して無駄にならないことを知っています。わたしたちは毎日、「平和と正義と愛を生きる新たな世界に」向かって、毎日巡礼者として一歩を刻んでいきます。

シノドス的であろうとしている教会は、巡礼者としてともに歩む教会であろうとしています。わたしたちは巡礼者です。ともに支え合い、互いに耳を傾けあい、ともに歩む教会は、毎日小さな一歩を社会の中に刻んでいきます。その小さな一歩の積み重ねこそが、暗闇の支配する社会に希望を生み出し、神の計画の実現へとつながっていきます。わたしたちは巡礼者です。福音をともに証ししながら、確実に一歩ずつ前進を続ける希望の巡礼者です。