大司教
週刊大司教第百五十二回:年間第三主日
2024年01月22日
今日のメッセージでも触れていますが、年間第三主日は、神のことばの主日です。
中央協議会のホームページには、次のように解説が掲載されています。なお、こちらのリンク先の解説のページの下部にあるリンクから、教皇様の文書「アペルイット・イリス」をダウンロードして読むこともできます。
『教皇フランシスコは、自発教令の形式による使徒的書簡『アペルイット・イリス(Aperuit illis)』を、2019年9月30 日(聖ヒエロニモ司祭の記念日)に公布して、年間第三主日を「神のことばの主日」と名付け、「神のことばを祝い、学び、広めることにささげる」ことを宣言されました。また、「神のことばの主日」は、キリスト教一致祈禱週間(毎年1月18日~25日)とも重なり、「わたしたちがユダヤ教を信じる人々との絆を深め、キリスト者の一致のために祈るように励まされる」よう、エキュメニカルな意味を深めるものでもあります』
またこの解説にも触れられているとおり、1月18日から25日は、キリスト教一致祈祷週間です。今年のテーマは、ルカ福音10章27節から「あなたの神である種を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」とされ、日本キリスト教協議会とカトリック中央協議会でともに準備した文書では、今年は特に、アフリカ西部のブルキナファソ(ガーナのすぐ北です)の教会に思いを馳せて祈りを捧げることが勧められています。今年は久しぶりに、東京での合同の一致祈祷会がカテドラル聖マリア大聖堂の地下聖堂で、1月21日の午後2時から開催されました。詳細はこちらのリンクへ。
以下、20日午後6時配信の週刊大司教第152回、年間第三主日のメッセージ原稿です。
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年間第三主日B
週刊大司教第152回
2024年1月21日前晩
「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」
マルコ福音の冒頭には、馬小屋でのイエスの誕生の物語は記されていません。マルコはイエスの物語を、洗礼者ヨハネの出現を預言したイザヤの言葉、「荒れ野で叫ぶものの声がする」をもって始めています。さらにその直後にイエスの洗礼について記し、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの」という神のことばを記します。その直後にマルコ福音は、「イエスはガリラヤへ行き、神の福音をのべ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」と記しています。
すなわち、マルコ福音はその冒頭から、この世界に響き渡る声こそが神の意志を告げる声であり、イエスこそはその神のことばの受肉であって、その本性からして福音そのものであり、福音をのべ伝えることこそがイエスの人生そのものであることを明確にします。
ですから、イエスと弟子たちとの歩みは、議論や対話のうちに始まったのではなく、神ご自身からの一方的な宣言によって始まります。信仰はわたしたちの選択なのではなく、神からの一方的な呼びかけによって成り立っています。人間の都合から言えば、その場ですべてを捨てて従うことなど、とんでもないことです。この世の常識に従うなら、よく話し合って納得してから従うのかどうかを決めたいところです。しかしイエスはなんとも身勝手に、神の意志を言葉として発してこられます。一方的に呼びかけてこられます。同じ呼びかけは、日々わたしたちに対しても聖書のみ言葉の朗読を通じて行われています。その呼びかけに、わたしたちは応えているでしょうか。
教皇フランシスコは2019年9月に、使徒的書簡「アペルイット・イリス」を発表され、年間第三主日を、「神のことばの主日」と定められました。今年は1月21日が、「神のことばの主日」であります。教会は、聖書と共に、使徒たちから伝えられた「信仰の遺産」である生きている聖伝も大切にしています。カテキズムは、「どちらも、『世の終わりまで、いつも』弟子たちとともにとどまることを約束されたキリストの神秘を、教会の中に現存させ、実らせるもの」だと指摘しています(80)。
教皇は、「聖書のただ一部だけではなく、その全体がキリストについて語っているのです。聖書から離れてしまうと、キリストの死と復活を正しく理解することができません」と指摘します。
第二バチカン公会議の啓示憲章も、「教会は、主の御からだそのものと同じように聖書をつねにあがめ敬ってき〔まし〕た。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、たえずキリストのからだと同時に神のことばの食卓からいのちのパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからで〔す〕」(『啓示憲章』 21)と記して、神のことばに親しむことは、聖体の秘跡に与ることに匹敵するのだと指摘しています。
それぞれの生きる場で、神のことばをあかしして生きるように、招かれているわたしたちは、日頃から、また典礼祭儀において、神のことばに耳を傾け、慣れ親しみ、自らの心にそれを刻み込んであかしするものでありたいと思います。