大司教

週刊大司教第百四十二回:年間第二十四主日

2023年09月18日

東京教区では、森司教様、西川哲彌神父様に続いて、9月10日にパウロ・テレジオ古賀正典神父様が帰天されました。葬儀は9月19日火曜日午後1時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われます。お祈りください。

古賀神父様は、一時、神学生時代にレデンプトール会の志願者として名古屋で養成を受けられたこともあり、わたしにとってはその当時からの知り合いでありました。年齢もわたしより一つ下であります。東京教区司祭として1990年に叙階後、小教区司牧や教区本部事務局で働かれ、わたしが司教になった2004年頃は、中央協議会の法人事務部長も務めておられました。その後体調を崩し、2017年からはペトロの家で療養生活を続けておられましたが、この9月10日の早朝、帰天されました。古賀神父様の永遠の安息のためにお祈りください。

秋田の涙の聖母で世界に知られている聖体奉仕会修道院で、4年ぶりに秋田聖母の日が開催され、地元の成井司教様に、大阪の酒井司教様とわたしも加わり、9月15日のミサは秋田県内外の司祭も含めて、司教三名、司祭6名で、集まった150名を超える方々とともに、ミサを捧げ祈ることができました。わたしはミサを司式させていただきましたので説教原稿は別掲します。

以下、16日午後6時配信、週刊大司教第142回、年間第24主日メッセージ原稿です。
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年間第24主日
週刊大司教第142回
2023年9月17日前晩

多分に身勝手なわたしたちは、自分の過ちは無条件で許してほしいと願うのに、自分に対する他者の過ちには、そう簡単に許してしまおうという気持ちにはなりません。いつくしみとゆるしは、わたしたちにとって生涯の課題であるともいえるでしょう。

本日の第一朗読であるシラ書も、そしてマタイ福音も、ゆるしと和解について記しています。

わたしたちが他者との関係の中で生きている限り、どうしてもそこには理解の相違が生じ、互いを理解することが出来ないがために裁いてしまい、その裁きは時として怒りを生み、結局のところ相互の対立を導き出してしまいます。シラ書は、人間関係における無理解によって発生する怒りや対立は、自分と神との関係にも深く影響するのだと指摘します。他者に対して裁きと怒りの感情を抱いたままでは、自分と神との関係の中で、ゆるしをいただくことは出来ない。

わたしたちは完全なものではありませんから、しばしば罪を犯し、神の求める道を踏み外したり、神に背を向けてしまったりします。人生の中で何度そういった過ちを悔い、神にゆるしを願うことでしょう。しかし神は、神にゆるしを請う前に、他者と自分の関係を正しくすることを求めます。他者との人間関係において、ゆるしと和解が実現しなければ、どうして神にゆるしを求めることが出来るだろうかと、シラ書は指摘します。

マタイ福音は、「七回どころか七の七十倍までもゆるしなさい」と言うイエスの言葉を記しています。もちろん490回ゆるせばよいという話ではなく、七の七十倍という言葉で、限りない深さを持った神のゆるしを示します。またそのゆるしをいただいたものが、そのあわれみを他者との関係における自らの行動につなげるのではなく、反対に隣人を無慈悲に裁いた話をイエスはたとえとしてあげ、他者を裁くものには、神のゆるしがないことも明示されています。

わたしたちは、なぜ、ゆるし続けなくてはならないのか。それをパウロはローマの教会への手紙で、「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」と記すことで、わたしたちの人生そのものが、主ご自身が生きられたとおりに生きることを目的としているのだと指摘します。

その主の人生とは、十字架上の苦しみの中で、自らの命を奪おうとしているものをゆるすいつくしみであり、愛するすべてのいのちの救いのために、自らを犠牲にする愛といつくしみそのものの人生です。ですからわたしたちは、あわれみ・いつくしみそのものである神に倣って生き、他者との関係の中で、徹底的にゆるし、常に互いを受け入れ合う道を歩まなくてはなりません。それは、わたしたちが、愛といつくしみそのものである主イエスに従うのだと、この人生の中で決めたのだからこそ、そうせざるを得ないのであります。

「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」というパウロの言葉に、今一度心を向けましょう。