大司教

週刊大司教第百三十五回:年間第十七主日

2023年08月04日

暑い毎日が続いていますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

この時期、学校も夏休みに入り、教会のキャンプなど様々な行事があろうかと思います。どうか暑さに気を付けて、無理はなさいませんように。またWYDワールドユースデーに参加する青年たちや同行司教、司祭、修道者も、すでにポルトガルに向けて出発しています。本番の大会が始まる前に、現地の教区との交流のプログラムが用意されています。こちらからフォローください。日本からは、勝谷司教、酒井司教、成井司教も同行しています。ヨーロッパも暑いみたいです。参加者たちの健康のために、またワールドユースデーの成功のために、お祈りください。

以下、29日6時配信の週刊大司教第135回、年間第17主日のメッセージ原稿です。
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年間第17主日A
週刊大司教第135回
2023年7月30日前晩

マタイ福音は、「宝」について語るイエスのことばを記します。「持ち物をすっかり売り払って」でも、手に入れたくなるような「宝」です。ここでイエスが語る「宝」は、経済的な付加価値を与えてくれる財産としての「宝」ではなく、自分の人生を決定的に決めるような「宝」であります。人生のすべてを賭けてでも手に入れたくなるような、いのちを生かす「宝」であります。

それをよく表しているのが、第一朗読の列王記の話です。神はダビデの王座を継いだソロモンに、「何事でも願うが良い。あなたに与えよう」と言われます。それに対してソロモンは、経済的な付加価値を持った「宝」を求めることもできたでしょう。しかしソロモンは、自分の利益を求めることなく、「あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」と願い、神から喜ばれることになります。その結果として、「知恵に満ちた賢明な心を」神から与えられたと、記されています。

ソロモンは自分の利益ではなく、自分に託された神の民のための「宝」を求めた。ここに福音に記された、すべてをなげうってでも手に入れたくなる「宝」の意味が示されています。

わたしたちが求め続ける「宝」は、自分の利己的な欲望を満たす宝ではなく、他者のいのちを生かし、社会の共通善に資するような「宝」であって、わたしたちが人生を賭けてでも求め続けなくてはならない「宝」であります。そしてわたしたちには、その「宝」が、イエス・キリストの福音として与えられています。「宝」そのものである主御自身が、常にわたしたちと歩みをともにしてくださっています。人生のすべてを賭けて、その主に従っていきたいと思います。

まもなく8月になり、毎年この時期には平和について普段以上に考えさせられます。8月6日から15日までは、毎年恒例の平和旬間がはじまります。1981年に日本を訪れた教皇ヨハネ・パウロ二世は、広島での平和メッセージで、「過去をふり返ることは、将来に対する責任を担うことです」と、繰り返し呼びかけられました。

夏になって戦争の記憶をたどり、平和を祈るとき、この教皇の言葉を思い出したいと思います。わたしたちは過去を振り返り平和を祈るとき、将来に対する平和を生み出す責任を担います。

暴力の支配が当たり前の日常になる中で、戦争のような暴力を平和の確立のための手段として肯定する動きすらあります。しかし、目的が手段を正当化することはありません(カテキズム1753)。「戦争は死です」。賜物であるいのちを生かす神の「宝」から目をそらすことなく、ともに歩まれる平和の主に従っていきたいと思います。