大司教

週刊大司教第百三十一回:年間第十三主日

2023年07月03日

年間第13主日です。

6月29日は聖ペトロ聖パウロの祝日でしたが、毎年、この日に一番近い6月最後の月曜日には、東京カテドラルにおいて司祭の月例集会の代わりに両聖人の記念日のミサが捧げられてきました。これは、1938年に司教叙階された土井枢機卿様から、白柳枢機卿様、そして2017年に引退された岡田大司教様に至るまで、実に80年近くも、東京の三代の教区司教の霊名がペトロであったことから、自然と大司教の霊名のお祝いになっていたようです。ところがわたしはタルチシオという霊名でペトロではなかったものですから、この方程式が崩壊しました。

そこにコロナもありましたので、いろいろと考え直し、この日は聖職者の集いとして、主に叙階の節目の年を記念している司祭のお祝いのミサとすることにしました。今年も、司祭叙階ダイアモンド(60年)、金祝(50年)、銀祝(25年)をお祝いする東京で働いておられる司祭をお招きして、教皇大使も参加する中、感謝ミサを捧げました。今年お祝いを迎えられた方々については、次の教区ニュースをご覧ください。

わたしはその次の火曜日にマニラへ飛び、金曜日まで、マニラに本拠地を置くラジオ・ベリタス・アジアの会議に参加してきました。現在わたしが事務局長を務めるFABC(アジア司教協議会連盟)が設置し、フィリピンの司教団に運営を委託している大切な事業です。かつては特に中国に向けて短波の放送をすることに一番の力点がありましたが、いまは時代が変わりインターネットです。数年前に短波の事業は終了し、ネットを通じた放送へと大きく舵を切りました。

二日間の会議の終わりは、29日の夕方6時から、マニラカテドラルで、教皇様の日のミサに参加させていただきました。毎年、聖ペトロ聖パウロの祝日に、教皇様のためにミサを捧げられており、この日は教皇大使のチャールズ・ブラウン大司教が司式、マニラ大司教のアドヴィンクラ枢機卿様が臨席の形で、ミサが捧げられました。こちらのリンクに、当日のビデオがあります。ミサは英語です。音楽がすごいです。

以下、3日午後6時配信の週刊大司教第131回、年間第13主日のメッセージ原稿です。
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年間第13主日
週刊大司教第131回
2023年7月2日前晩

マタイ福音は、「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」という、主イエスの言葉を記しています。「自分の十字架」とは一体なんでしょうか。苦行を耐え忍ぶことでしょうか。人生の諸々の苦難を背負ってしまうことでしょうか。

わたしたちにとって、十字架とはいったいなんでしょう。マタイ福音に記されたこの言葉は、主にふさわしいものとなるための条件としての十字架です。それは前向きな行動を促す言葉です。

パウロはローマの教会への手紙に、「わたしたちは洗礼によってキリストとともに葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられように、わたしたちも新しいいのちに生きるためなのです」と記しています。主御自身の死と復活をもたらしたその中心には、十字架が存在します。すなわち、わたしたちは、十字架を通じて主の死にあずかり、主とともに新しいいのちに生きるものとされます。十字架は、すべての人を救いへと招こうとされる、主の愛といつくしみを具体的にあかしする、栄光と希望を指し示す存在です。

コリントの信徒への第一の手紙、一章十七節に、パウロはこう記します。

「キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」

もちろん、救いのために洗礼が必要であることは否定できませんが、その前提としてまず大切なことがある。それはイエス・キリストの福音を告げることなのだと、パウロは宣言しています。

加えてパウロは、「しかも」と続け、福音を言葉の知恵に頼って告げていたのでは、キリストの十字架がむなしいものとなるというのです。ここではじめて、パウロが語る十字架の意味が明らかになります。神ご自身による、具体的で目に見える愛のあかしが、十字架です。十字架は、人間の救いのために、神ご自身がその愛といつくしみをもって具体的に行動した愛のあかしそのものです。

十字架は、重荷や苦しみではなく、積極的な愛の行動の象徴です。わたしたちが神からよしとされるのは、神の愛といつくしみをいただいて、自らそれを積極的にあかしする行動を選択したときです。十字架をあかしするものとなりましょう。愛といつくしみを具体的な行動であかしし、すべての人に神の栄光と希望を伝えていきましょう。