大司教

週刊大司教第百二十九回:年間第十一主日

2023年06月19日

6月16日はイエスのみこころ(聖心)の祭日でした。6月は聖心の月とされています。

イエスのみこころは、わたしたちへのあふれんばかりの神の愛そのものです。十字架上で刺し貫かれたイエスの脇腹からは、血と水が流れ出たと記されています。血は、イエスのみこころからあふれでて、人類の罪をあがなう血です。また水が、いのちの泉であり新しい命を与える聖霊でもあります。キリストの聖体の主日後の金曜日に、毎年「イエスのみこころ」の祭日が設けられています。

みこころの信心は、初金曜日の信心につながっています。それは17世紀後半の聖マルガリータ・マリア・アラコクの出来事にもとづく伝統であります。聖体の前で祈る聖女に対して主イエスが出現され、自らの心臓を指し示して、その満ちあふれる愛をないがしろにする人々への悲しみを表明され、人々への回心を呼びかけた出来事があり、主はご自分の心に倣うようにと呼びかけられました。そしてみこころの信心を行うものには恵みが与えられると告げ、その一つが、9ヶ月の間、初金曜日のミサにあずかり聖体拝領を受ける人には特別なめぐみがあるとされています。イエスは聖女に、「罪の償いのために、9か月間続けて、毎月の最初の金曜日に、ミサにあずかり聖体拝領をすれば、罪の中に死ぬことはなく、イエスの聖心に受け入れられるであろう」と告げたと言われます。(イエスのみこころへの信心に関連して、次のリンクに、教皇ベネディクト16世が2006年にイエズス会総長にあてた書簡の訳が掲載されています。)

今年は、祭日の前の日の木曜日、その名も「聖心女子大学」で、イエスのみこころのミサを捧げる機会に恵まれました。毎週木曜日の昼休みに、学生のためのミサを続けておられますが、その一つを、毎年担当させていただいてきました。今年は大学の聖堂に150名ほどの学生さんとスタッフが集まり、ミサに参加してくださいました。いえすの聖心がそうであるように、大学も社会にあって、安らぎをもたらし、希望を生み出す存在でありますように。

以下、17日午後6時配信、週刊大司教第129回、年間第11主日のメッセージ原稿です。
※印刷用はこちら
※ふりがなつきはこちら

年間第11主日
週刊大司教第129回
2023年6月18日前晩

「収穫は多いが、働き手が少ない」

豊かに実っているにもかかわらず、それを収穫する人が足りない。だから働き手をさらに必要なのだ。そのように理解すると、例えば日本での福音宣教の厳しい現実を目の当たりにして、一体どこにその豊かな実りがあるのだろうかと問いかけてしまいます。

この言葉は、それよりももっと根本のところを問いかけています。つまり神の国の完成のためには、神が求められるこの地上でするべきこと、しなければならないことは山積しており、それに取り組むための働き手がもっと必要なのだという意味でしょう。加えて、この言葉は単に、司祭の召命の必要性だけを説いているものでもありません。もちろん司祭は必要です。しかし同時に、神の国の完成のために働くのは、一人司祭だけではありません。すべてのキリスト者には、それぞれの場で、それぞれに与えられた才能に従って、「働き手」となることが求められています。

主御自身が「働き手」として最初に選ばれた12人の弟子たちも、決して皆が同じような人だったのではなく、様々な性格、様々な才能、様々な思いを持った異なった人たちでありました。まさしく多様性のうちにある人々です。その多様性ある共同体は、「天の国は近づいた」と告知する使命によって一致していました。それぞれが、それぞれに与えられた才能を生かし、異なる方法で、しかし同じ務めを果たすことで、多様性における一致が、弟子たちの共同体に実現し、あかしされていきました。同じように、現代社会に生きる教会共同体は、一つの体を形作る一人一人が、それぞれに与えられた才能を生かし、それぞれに異なる方法で、しかしキリストの福音を告げ知らせるのだという同じ思いによって結ばれるとき、多様性における一致が実現します。

教皇フランシスコは回勅「兄弟のみなさん」に、こう記しています。

「いのちがあるのは、きずな、交わり、兄弟愛のあるところです。・・・それとは逆に、自分は自分にのみ帰属し、孤島のように生きているのだとうぬぼれるなら、そこにいのちはありません(87)」

わたしたちの目の前には、神の国の完成のためにしなければならないことが広がっています。働き手はわたしたちです。わたしたちは共同体の一致の絆のうちに、その務めを果たしていきます。なぜならばキリストの体である共同体にこそ、いのちがあるからです。共同体の絆、交わり、兄弟愛に、わたしたちを生かす源であるいのちがあります。一人では「働き手」の務めを果たすことはできません。ともに助け合いながら、互いの絆を深め、それぞれに与えられた才能に基づいて、社会の中で「働き手」として、収穫の業、すなわち福音のあかしに努めて参りましょう。