大司教

週刊大司教第八十八回:年間第十九主日

2022年08月08日

8月に入り、本日8月6日から日本の教会は平和旬間を過ごします。昨日、8月5日、広島の世界平和記念聖堂では毎年恒例の平和祈願ミサが捧げられ、私も司教団の一員として参加いたしました。また8月6日の朝、8時15分の原爆投下の時間の黙祷に続いて捧げられたミサにも参加いたしました。いつもであれば、東京も含め全国から多くの方が参加して行われる平和行事ですが、残念ながら、コロナ禍のため、今年も平和公園からカテドラルまでの平和行列などは中止となり、ミサや講演会も参加者を限定してオンライン配信で行われました。

東京教区においては、都内の感染者の状況や、司祭が複数名検査陽性や発症していることなどもあり、ミサなどの公開を中止にしている教会も少なくありません。関口教会も、主任司祭など複数名の検査陽性のため、8月7日はミサが非公開ですが、オンライン配信で、大司教司式の平和祈願ミサを行います。

感染対策がおろそかにならないように、あらためて基本を見直してください。聖堂内でのマスク着用、手指の消毒、十分な換気に気を配り、適度な距離をとることや、帰宅時のうがいなどを忘れないようにいたしましょう。またミサでの歌唱は、全員ではなく、聖歌隊や独唱者に任せることを続けます。

以下、6日午後6時配信の週刊大司教第88回、年間第19主日のメッセージ原稿です。
※印刷用はこちら
※ふりがなつきはこちら

年間第19主日
週刊大司教第88回
2022年8月7日前晩

ルカ福音は、主人の帰りを待つ間、常に目覚めて準備している僕の話を記します。「あなた方も用意していなさい。人の子は思いがけないときに来るからである」

この朗読箇所の直前には、「自分の持ち物を売り払って施しなさい。すり切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい」と記されています。すなわちイエスが求めているのは、その再臨の時まで、わたしたちがどのように生きるのかであって、常に用意をするとは、単に準備を整えて控えていることではなくて、積極的に行動することを意味しています。

わたしたちは、天に富を積むために、神の意志をこの世界で実現する行動を積極的に取らなくてはなりません。神のいつくしみを具体化したのはイエスご自身ですが、そのイエスに従う者として、イエスの言葉と行いに倣うのであれば、当然わたしたちの言葉と行いも、神のいつくしみを具体化したものになるはずです。

神の望まれている世界の実現は、すなわち神の定めた秩序の具体化に他なりません。教皇ヨハネ二十三世は、「地上の平和」の冒頭に、こう記しています。

「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」(「ヨハネ23世地上の平和1)

わたしたちは、神の秩序が確立されるために、常に尽くしていきたいと思います。

日本の教会は、教皇ヨハネ・パウロ二世の平和への願いに触発されて、日本訪問の翌年から、8月6日の広島の日に始まり、9日の長崎の日、そして15日の終戦の日にいたる10日間を「平和旬間」と定めて、亡くなられた方々の永遠の安息を祈り、戦争の記憶を伝え、平和のために祈る時としてきました。

わたしたちが語る平和は、単に戦争や紛争がない状態なのではなく、神が望まれる世界が実現すること、すなわち神の秩序が支配する世界の実現です。わたしたちは日々、主の祈りにおいて、「御国が来ますように」と祈りますが、それこそは神の平和の実現への希求の祈りです。求めて祈るだけではなく、わたしたちがそのために働かなくてはなりません。その意味で福音宣教は平和の実現でもあります。

教皇ヨハネ・パウロ二世は、1981年に広島の地から世界に向けてこう語りかけました。

「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です。この広島の町、この平和記念堂ほど強烈に、この真理を世界に訴えている場所はほかにありません」

その上で、「過去をふり返ることは将来に対する責任を担うことです」と指摘されましたが、今年、国際社会は過去の悲惨な経験を忘れ去り、連帯の必要性をかなぐり捨て、将来への責任を放棄するかのように、暴力的な大国の行動に翻弄されています。

戦争によって暴力的にいのちを奪われる多くの方の存在を目の当たりにし、起こっている出来事の理不尽さに心が打ちのめされるとき、わき上がる恐怖と怒りは、思いやりや支え合いを、感情の背後に追いやってしまいます。今世界は、暴力によって平和を獲得することを肯定する感情に流されています。しかしそれは、真の平和を踏みにじることにしかなりえません

常に目を覚まして、神の秩序の確立のために、平和の確立のために、働き続けましょう。