大司教
週刊大司教第八十七回:年間第十八主日
2022年08月01日
あっという間に7月も終わりです。学校も夏休みの真っ最中で、本来であれば、各地の小教区でも、様々な夏の行事が行われたり準備されたりしている時期です。東京では、このところ自治体からの検査陽性者の報告が相次ぎ、教区内の教会でも、様々な要因を勘案して夏恒例の行事を中止としたところも少なくないと報告を受けています。大変残念ですが、一日も早くこの状況から脱することができるように、わたしたちにできる祈りを続けたいと思います。また教会活動にあっては、手洗い、うがい、換気、マスク、適度な距離といった基本を、忘れないようにいたしましょう。
感染の拡大が続いている東京教区内では、この数日、いくつかの教会で、司祭の検査陽性が報告されています。また信徒の方々にも、検査で陽性となる方が増えていますし、発症されている方も少なくありません。特に司祭が感染した場合、それぞれの小教区のミサをどのようにするかは、現場の司祭に判断の権限をゆだねていますので、教会からのお知らせなどにご注意ください。8月7日については、平和祈願ミサを非公開配信で行うことができるか、検討中です。
教皇様は7月24日から本日30日まで、カナダを司牧訪問されました。バチカンニュースは今回の訪問について、「今回の訪問は、カナダの政府と、カトリック教会、そして先住民共同体の招きに応えて行われるもの。教皇はこの訪問を通し、カナダのかつての先住民同化政策下、カトリック教会が運営に関わった寄宿学校において先住民の人々が体験した苦しみに耳を傾け、ご自身の寄り添いを直接伝えたいと願われている」と伝えています。
教皇様はカナダのエドモントン郊外で行われた先住民族の方々との集いで、「多くのキリスト教徒たちが様々な形で、先住民の人々を抑圧した権力者たちの植民地主義的なメンタリティーを支持したこと、中でもカトリック教会や修道会のメンバーが、無関心をも含めた態度をもって、当時の政府による文化の破壊と、寄宿学校制度を頂点とする強制的な同化政策に協力したことに対し赦しを願った」と報道されています。
教皇様はご自分のツイッターでも、この謝罪ですべてが終わるのではなく、いやしのプロセスの始まりであり、同時にゆるしは人間の努力だけではなく神からの恵みを必要とするとも述べておられます。
以下、30日午後6時配信の週刊大司教第87回、年間第18主日のメッセージ原稿です。
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年間第18主日C
週刊大司教第87回
2022年7月31日前晩
コヘレトの言葉は、「何というむなしさ。すべてはむなしい」と始まります。一体何がむなしいのでしょうか。コヘレトの言葉はそのあとで、「全てに時がある」という有名な一節を記します。この時は時計で計ることのできる時間ではなく、被造物に対して神が定めた時のことを指していますが、その神の定めた時に逆らって生きようとする姿勢やその価値観を、コヘレトの言葉がむなしいのだと指摘しています。
パウロはコロサイの教会への手紙で、「上にあるものを求めなさい。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」と述べています。ここにおいても、この世界を支配する人間的な価値観は、脱ぎ捨てるべき古い人の生き方を支配するものであって、造り主の姿に倣う新しい人を支配するものではない事を明示します。
ルカ福音は、自らのために蓄財しようと、新しく大きな蔵を建てようとしている金持ちのたとえ話を記しています。この世の価値観の典型である自分のための蓄財行為に対して、神が「愚か者よ、今夜お前の命は取り上げられる」と言ったというこのたとえ話は、まさしく、この世の価値観に支配され、徹底的に利己的な動機から行動するものに、その「むなしさ」を突きつけています。同時に、この世界を支配しているのは神であって、人間の都合で世界が動くわけではないと言う事実、すなわち、全ては神の時によって定められており、それに逆らうことは全くむなしいとこのたとえ話は教えています。
貧しい人のために積極的に出向いていく教会であることを求める教皇フランシスコは、回勅「兄弟の皆さん」に次のように記しています。
「世界はすべての人のために存在しています。人は皆、同じ尊厳を持って、この地球に生まれるからです」(118)
その上で教皇様は、「共同体としてわたしたちには、すべての人が尊厳を持って生き、十全な発達のための適切な機会が得られることを保障する責務があるのです」と記します(118)
さらに教皇様は聖ヨハネ・クリゾストモの言葉を引用して、こう記します。
「自分の財産を貧しい人々に分かち与えないとすれば、それは貧しい人々のものを盗むことになり、彼らの生命を奪うことになります。わたしたちが持っている物はわたしたちのものではなく、貧しい人々の物です」(119)
第二バチカン公会議の現代世界憲章には、「人間の価値は、その人が何を持っているかではなく、どのような者であるかによる(35)」という一節があります。わたしたちは、どのような者であろうとしているのでしょうか。自分自身を世界の中心に据え、自分の計画で人生が動いていると思い込む生き方なのか、それともすべての人の尊厳が守られ、賜物である命が十全な発達の機会を与えられるよう努める生き方なのか。
教皇様の「福音の喜び」に記された呼びかけに、あらためて耳を傾けたいと思います。
「出向いていきましょう。すべての人にイエスのいのちを差し出すために出向いていきましょう。・・・わたしは出て行ったことで事故に遭い、傷を負い、汚れた教会の方が好きです。閉じこもり、自分の安全地帯にしがみつく気楽さゆえに病んだ教会よりも好きです。(49)」
神の定められた時に敏感に心を向け、それを悟り、それに従う人生を歩みましょう。