大司教
週刊大司教第四十三回:年間第二十四主日
2021年09月12日
残念なことに、現在の緊急事態宣言は9月30日までの延長となりました。緊急事態宣言とともに自動的に公開ミサの自粛に入る教区もある中、東京教区では、小教区の現場の皆さんのご協力で感染対策に取り組み、できる限りミサを続けるようにしてきました。昨年の最初の公開ミサ自粛以降は、原則として小教区でのミサの公開を継続してきました。感染対策にご協力いただいた小教区の現場の方々に、心から感謝いたします。
しかしこの8月に、検査の新規陽性者が大幅に増加し、自宅療養や入院される発症者も増加し、さらには重症者も200名をはるかに超える人数が続いたこと、さらにはいわゆる変異株による感染が課題として浮かび上がってきたことなど諸要素を勘案し、今回の感染症が昨年初めに始まってから二度目となる、東京教区における公開ミサの自粛に踏み切りました。
もとより、ワクチン接種に関しては、教皇様を始めわたし自身も受けていることや、教皇様の接種を強く勧める言葉もありますので、わたしとしては接種を前向きに受け止めていますが、体調やアレルギーなどで受けることが出来ない方、さまざまな考えから受けないことを選択される方もおられますので、教区として接種を義務化するような判断はしていませんし、今後もするつもりはありません。接種の義務化を求めないのですから、ワクチン接種の有無を教会活動参加の可否に援用することもいたしません。
全体として状況は良い方向に向かっているという判断の声を多く聞くようになりました。今般、9月30日までの緊急事態宣言の延長が決定されたことで、東京教区におけるミサの公開に関してあらためて判断することにしました。一昨日の時点では、全体の状況が徐々に好転しているのは確かですが、入院や療養が必要な方はまだまだ多く、重症者の方も多くは回復されていません。やはり今しばらくは慎重な行動が必要と判断いたしました。
これまで幾たびも繰り返してきたことですが、教会はミサを放棄したわけではありません。ミサは続けられています。一人ひとりのキリスト者の霊的成長のために聖体祭儀は不可欠であると同時に、それは独り個人の信心ではなく、教会共同体としての行為であります。昨年3月9日にわたしはこうメッセージを記しました。
ミサの中止は、上記のように『公開のミサ』の中止であって、教区内の小教区や修道院にあっては、「公開されない」形で、ミサが通常通り司祭によって毎日捧げ続けられています。教区共同体内から、ミサが消えてしまったわけではありません。司祭はたとえ一人でミサを捧げたとしても、すべては「公」のミサとして捧げるからです。教皇ヨハネパウロ2世の回勅『教会に命を与える聖体』に、こう記されています。
『(司祭が祭儀を行うこと)それは司祭の霊的生活のためだけでなく、教会と世界の善のためにもなります。なぜなら「たとえ信者が列席できなくても、感謝の祭儀はキリストの行為であり、教会の行為だからです」』
わたしがミサ公開自粛期間に、自ら司式する主日ミサをカテドラルから配信する一番の理由は、そのミサが、東京教区という共同体全体のミサであることを象徴するためでもあります。わたしはともに祈ってくださる教区の皆さんと霊的に繋がれながら、教区の皆さんとともに、教区共同体の行為として、ミサを捧げます。
どうか困難な状況からの解放を求め、教会共同体の霊的な繋がりの中で、ともに祈り求めましょう。この困難が、わたしたちの教会共同体を、これまで以上に堅固な存在としてくださるように、わたしたちをその体における一致へと招かれる主に信頼して、祈り続けましょう。
以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第四十三回のメッセージ原稿です。
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年間第24主日
週刊大司教第43回
2021年9月12日前晩
先週の日曜日9月5日に、パラリンピックが閉会式を迎えました。先に開催されたオリンピックとともに、感染症が終息しない中で国際的な行事を開催すること自体に賛否両論がありましたし、実際に参加された方々や現場での運営にあたった方々には大きな苦労があったことだと思います。わたし自身もかなりの不安を抱いておりましたし、感染症に関して社会への影響があったのかどうかは、後にならなければ判明しないのかもしれません。
障がいと共に生きる方々のスポーツ世界大会であるパラリンピックは、その大会が象徴する価値観からも世界にとって重要な出来事であると思うのですが、オリンピックと比較すれば注目度は高いとは言えず、加えて今回の事態でそれがさらにかすんでしまったのは残念です。
パラリンピックに掲げられた重要な柱である価値観は、スポーツイベントを超えて社会全体へ重要なメッセージを発信していると言っても過言ではないと思います。日本パラリンピック委員会によれば、パラリンピックが重視する価値は、勇気、強い意志、インスピレーション、公平であります。
同委員会のホームページによれば、「マイナスの感情に向き合い、乗り越えようと思う精神力」が勇気であり、「困難があっても、諦めず、限界を突破しようとする力」が強い意志であり、「人の心を揺さぶり、駆り立てる力」がインスピレーションであり、「多様性を認め、創意工夫をすれば、誰もが同じスタートラインに立てることを気づかせる力」を公平としています。
教会はすべてのいのちが神の目からは大切であることを強調し、誰ひとり排除されない社会の構築を提唱しています。またわたしたちのいのちは、その始まりから終わりまで、一つの例外もなくその尊厳が守られなければならないと主張しています。残念ながら、多様性を認めながら共に支え合って生きるのではなく、分断し排除しようとする傾向が、昨今の世界では、さまざまな形態をとって垣間見られます。その社会に対して、「勇気、強い意志、インスピレーション、公平」という価値観は、連帯のうちにともに支え合おうという、いのちを守る社会の実現を呼びかけています。
イザヤは、この世によって排除され迫害されるいのちに対して、そのいのちを愛し守られる創造主が、常に共にいて守られることを記しています。
使徒ヤコブは、行いが伴わない信仰は、「何の役に立つでしょうか」と問いかけます。その上で、「わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう」と宣言します。
マルコ福音は、イエスが弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と尋ねた話を記します。弟子たちは口々に、方々で耳にする主イエスについての評価を語ります。つまりそれは「うわさ話」であります。それに対してイエスは、「それでは、あなた方はわたしを何者だというのか」と迫ります。わたしたちは、いま、主によって回答を迫られています。わたしたち一人ひとりは、一体何と応えるのでしょう。わたしにとって、主イエスとは何者なのでしょうか。
わたしたちは、いのちを与えられた神から愛されている存在です。守られている存在です。その神のいつくしみを、愛を、具体的にわたしたちに示されるのは、共にいてくださる主イエスであります。主こそわたしたちの救い主と、ペトロと一緒に応えるのであれば、わたしたちには主が生きたように、語ったように、生きていく務めがあります。それは信仰を具体的に行動に表すことであり、すべてのいのちが神に愛される存在であることを、具体的に示すことであります。