大司教

週刊大司教第三十三回:年間第十四主日

2021年07月04日

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7月となりました。7月4日は年間第14主日です。

「大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」というパウロの言葉が、印象深く響く主日であります。わたしたちは、さまざまな困難に立ち向かって生き抜いていくために、強くありたいと思うものです。しかしパウロは、自分の力を前面に押し出していては、肝心の神の力が働かない。自ら神の働きを妨げるバリアを張り巡らしているのだと諭します。自分のバリアは、こちらからも、向こうからも、互いに働きかけようとする人間関係を断ち切ります。人と人との関係性のないところに、神の力も働きません。それは本日の福音に明らかに記されています。自分の弱さを認めるところに、バリアを取り除く秘訣があるとパウロは語ります。

7月3日は使徒聖トマの祝日でした。「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じるものは幸い」と復活されたイエスから言われたトマです。「わたしを見たから信じたのか」は、トマの不信仰を咎め立てする言葉にも聞こえますが、それ以上に、実際に存在するイエスと相まみえることと、復活されたイエスと出会い、その主を信仰する事とは異なることを示唆しています。すなわち、イエスご自身が言われた、「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ(マタイ二十五章三十五節)」という言葉とそれに続く、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」という言葉にあるように、わたしたちは復活された主を、さまざまな場で、さまざまな人のうちに見いだします。助けを必要とする人との出会いのうちにい、わたしたちは主と出会います。従って、「わたしを見たから信じたのか」という主のトマへの問いかけは、実はその後に、「お前が信じたのは、それだけのためではないだろう。この姿を直接見ないとしても、さまざまな出会いの中で、わたしと見いだすだろう。その個人的出会いによって信じなさい」と続いていくのではなかろうかと思います。わたしたちは、「見ないで信じる」ものですが、それは全く出会いがない中で闇雲に信じているのではなく、教皇ベネディクト十六世がしばしば指摘されたように、「主との個人的な出会い」を通じて信じます。そしてその出会いは、現実社会の中でのさまざまな出会いのうちに実存される、主イエスとの出会いです。

ちなみに、聖トマはその後インドへおもむき、現在のインドにおけるカトリック東方典礼であるシロ・マランカラ、シロ・マラバール教会の礎を築いたと言われます。(上の写真は、2009年のアジア司教協議会連盟総会で行われた、シロ・マランカラ(Syro-Malankara)典礼のJoshua Mar Ignathios司教のミサ)

ワクチンの接種が進んでいます。わたしも先日一回目を受けました。七月末までには二回目を受ける予定です。教皇様ご自身も接種を受けられています。もちろん、ワクチン接種は任意でありますし、体質的に避けた方が良い方もおられますので、教会においては接種を勧めるものの、義務とすることは考えていません。どうかご自分で判断なさってください。また近い将来、多くの方が接種を受けた段階になっても、例えば接種証明を持って、ミサの参加の可否を判断するなどということもいたしません。

以下、本日土曜日午後6時公開の、週刊大司教第33回目の、メッセージ原稿です。
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年間第14主日
週刊大司教第33回
2021年7月4日前晩

「わたしは弱いときにこそ強いからです」

コリントの教会の手紙でパウロは、人間の思い描く理想とは異なる、いわば逆説の中に、神の真理は存在している事を指摘します。人間の常識が優先されるとき、神の真理はその働きを妨げられる。しかしその思い上がりに気づき、人間の力の限界、つまり弱さを認めたときに初めて、それまで働きを阻んできた「キリストの力がわたしのうちに宿」り、その本来の力を発揮するのだと、パウロは指摘します。思い上がり、思い込み、常識、自己保身、虚栄、などなど、神の力が働くことを妨げるわたしたちの利己的な心の動きは、いくつでも見いだすことが出来ます。

マルコ福音に記されたイエスの物語は、この事実を明確に示します。目の前に神ご自身がいるにもかかわらず、人々の心の目は、人間の常識によって閉ざされ、神の働きを妨げます。閉ざされた心の目は、自分たちが見たいものしか見ようとしません。人間の思い上がりは、簡単に心の目を閉ざし、自分たちが正しいと思い込んで選択した行動が、実際には神に逆らう結果を招いていることにさえ気がつかせません。

「出向いていく教会」であれと呼びかけられる教皇フランシスコは、「福音の喜び」の中で、「宣教を中心とした司牧では、『いつもこうしてきた』という安易な司牧基準を捨てなければなりません(33)」と呼びかけます。

その上で教皇は、「わたしは、出向いていったことで事故に遭い、傷を負い、汚れた教会の方が好きです。閉じこもり、自分の安全地帯にしがみつく気楽さゆえに病んだ教会よりも好きです。中心であろうとばかりしている教会、強迫観念や手順に縛られ、閉じたまま死んでしまう教会は望みません。(49)」と指摘されます。

2023年秋に、シノドス世界代表司教会議が開催されます。教皇はそのテーマを、「ともに歩む教会のため―交わり・参加・そして宣教」と定められました。教皇は、教会の「シノドス性」、すなわち、神の民として「ともに歩む」姿勢をテーマとし、それを具体的に生きる教会であるための道を見いだそうとされています。神の民のすべてが、その識別へ参加するように招かれています。

今年の10月から、世界各地の教区において、草の根の声を吸い上げるプロセスが始まります。そのための前提となる質問書は準備が進んでいます。先日のシノドス事務局とのオンライン会議によれば、準備されている質問書は、これまでのような重厚な文書ではなく、短い、理解しやすいものとのこと。どのような方法になるかはまだ定まっていませんが、東京教区でも、また日本の教会全体でも、この秋以降、できる限り多くの方の声をうかがい、バチカンに届けたいと思います。

また東京教区では、同じように、宣教司牧方針を定めるために、多くの方からの意見聴取を時間をかけて行い、昨年末に、今後10年ほどの方向性を記した文書をお示ししたところです。残念ながら、感染症の状況の中で教会活動の自粛が続き、具体的な動きを始めようとするところで滞っていますが、徐々に方針の三つの柱である「宣教する共同体」、「交わりの共同体」、「すべてのいのちを大切にする共同体」を実現する道を歩みはじめたいと思います。

これまでこうしてきたからとか、こうして成功したとか、さまざまな人間の思いにがんじがらめになるとき、新しい挑戦へと踏み出すことを躊躇してしまい、結局、神の力が働くのを妨げることを繰り返しています。勇気を持って、傷つくのを恐れず、出向いていく教会として、福音に生き、福音をあかしして参りましょう。弱さを認めたとき、初めて神の力が働きます。