大司教

週刊大司教第三回:王であるキリスト

2020年11月24日

年間最後の主日となりました。王であるキリストの主日です。

この数日、東京都では新型コロナ感染症の検査陽性者が500名を超えることが続いており、週明けにはさらに増加することも懸念されています。また重症となられた方も30名を超えることが続いております。統計を見ますと、やはり高齢の方に重篤化する方が多いようです。東京大司教区にあっては、主日のミサに与る義務は引き続き免除されておりますので、健康に不安のある方はご自宅でお祈りください。

私のメッセージを提供しております「週刊大司教」はミサではありませんが、その主日の福音を朗読し、説教を聞いていただき、主の祈りを一緒に唱えます。ミサに参加することが出来ない場合には、このビデオをご利用いただいて、霊的聖体拝領の一助としていただくことも出来ます。

映像の停止などを自由に出来る方は、例えば、冒頭の集会祈願後に映像を一時停止し、第一朗読と第二朗読をご自分で聖書と典礼などから朗読され、その後映像を再開して福音朗読を聞き、私のメッセージ後の主の祈りが終わったら、再び映像を一時停止して、例えば下記のような祈りを唱えて、霊的聖体拝領とすることも出来ます。しばらくの沈黙の後に、あらためて映像を再開し、祝福とするような方法でご活用いただければと思います。

「聖なる父よ、あなたが私の心に住まわせられた聖なるみ名のゆえに、また、御子イエスによって示された知識と信仰と不滅のゆえに、あなたに感謝します。とこしえにあなたに栄光がありますように。全能の神よ、あなたはみ名のためにすべてをつくり、また人々があなたに感謝するため、御子によって霊的な食べ物永遠のいのちを与えられました。力あるあなたに何にもまして感謝します。とこしえにあなたに栄光がありますように。アーメン」(カルメル会『祈りの友』より)

または、次の聖アルフォンソ・リゴリの祈り。ほかにもたくさんの祈りがあります。

わたしのイエスよ、
最も祝福された秘跡のうちに、あなたがおられることを信じています。
わたしはあなたを何よりも愛し、わたしの魂にお迎えしたいと望んでいます。
いまは秘跡によってあなたを受けることができませんから、せめて霊的にわたしの心に来て下さい。
わたしはすでにあなたがわたしの心におられるようにあなたを抱きしめ、わたしのすべてをあなたと結びつけます。
わたしがあなたから離れることを、おゆるしにならないでください。アーメン。

また聖体拝領などについて、2月27日に記した「司教の日記」(こちらのリンクです)もご一読ください。

以下、本日配信の週刊大司教第三回のメッセージ原稿です。
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王であるキリスト
2020年11月22日前晩

典礼の暦がまた新たな一年を始めようとしています。王であるキリストの主日は、典礼の暦では年間の最後の主日です。2020年は、時間が本当にあっという間に過ぎ去っていきました。一年前、わたしたちは教皇フランシスコが日本に滞在されているただ中で、王であるキリストの主日を祝いました。

あのとき、教皇訪日という高揚した気持ちのなかにあったわたしたちは、これから何か新しいことが始まるのではないかという、漠然としてはいたものの、前向きの興奮に捕らえられていたように思います。それが年が明けるとすぐにコロナ禍が世界を襲いました。今度は、いのちが危機にさらされるのではないかという、やはり漠然としてはいたものの、後ろ向きな興奮の中で、この一年を過ごしてきました。残念ながら、その後ろ向きの状態から抜け出す道筋は不確かです。

この一年、特に病床にあった方々のためにあらためて祈ります。また献身的にいのちを守るために取り組まれている医療関係者の皆様に、あらためて感謝申し上げます。

感染症のもたらす困難といのちの危機に直面して、わたしたちは再び、人間の知恵と知識、そして科学や技術の力は、世界の中では本当に小さく弱いものであることを思い知らされています。世界を支配するのはその創造主である全能の神であることを、あらためて心で感じ取っています。わたしたちは、創造主である神にいのちをいただき、生かされている者です。ですから、この世で賜物であるいのちを生きる上で、世界を支配する王であるキリストがわたしたちに求める生き方に、あらためて目を向け、それを自らの生き方としたいと思います。

教皇フランシスコは先週の日曜日を、貧しい人のための世界祈願日と定め、シラ書七章三十二節からとった「貧しい人に援助の手を差し伸べよ」と言う言葉をテーマにしたメッセージを発表されています。その中で教皇はこう指摘されています。

「弱い立場に置かれている人を支え、傷ついた人をいやし、苦しみを和らげ、尊厳を奪われた人にそれを取り戻す、そうした寛大さは、人間らしく充実した人生に欠かせない条件です。貧しい人とその多種多様なニーズに目を向けるという選択は、時間の有無や個人の損得、あるいは血の通わない司牧や形だけの社会的事業には左右されません。自分をいつも優先する自己陶酔的な傾きによって、神の恵みの力を抑えつけることはできないのです」

教皇フランシスコは、教会はいつくしみを提供する最前線の野戦病院であれと繰り返し述べられ、貧しい人、弱い立場に置かれた人たちへの心配りが教会にとっての重要な使命であると常日頃から指摘されています。

まさしく福音にあるとおり、「私の兄弟であるこのもっとも小さな者のひとりにしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言う主イエスの言葉を、常に心に刻み、それに忠実に生きようとする姿勢であります。

教皇は、「自分を優先する自己陶酔的な傾き」が、神のいつくしみが豊かに働こうとするのを妨げるのだと指摘されています。その上で教皇は、「祈りに費やす時間は、困窮する隣人をなおざりにする言い訳には決してなりえません。正しくはその逆です。貧しい人への奉仕が伴って初めて、わたしたちに主の恵みが注がれ、祈りが聞き入れられるのです」とまで言われます。

わたしたちはこの世界において、神の豊かなあわれみが力強く働こうとする時に、その道具としてあわれみといつくしみを具体化する者とならなければなりません。わたしたちの世界を支配するのは、悪の力ではなく、いつくしみそのものである神の御ことば、主イエス・キリストです。