大司教

週刊大司教第一回:年間第三十二主日

2020年11月09日

2月27日からの公開ミサ中止に合わせて、3月1日から主日ミサをインターネット配信しておりました。配信の機器をそろえ実際に毎回配信をしてくださったボランティアスタッフや、聖歌を歌ってくださったシスター方、非公開の時には、広い大聖堂でミサに参加してくださったシスター方。そのほか多くの方のかかわりと助力で成り立っていた配信でしたが、その分多くの方に負担をかけることになり、また教区の週末行事も再開されるところが出て、わたし自身のスケジュール調整が難しくなってきたこともあり、ひとたびお休みさせていただくことにいたしました。協力いただいた皆様に感謝します。

その代わりになるかどうか分かりませんが、土曜日の晩に、「週刊大司教」と題して、10分程度の短いビデオを配信することにしました。主日の福音朗読とそれに基づく短いメッセージで構成しています。感染状況の変化に応じて、配信ミサが再開される可能性もありますが、当分はこちらを継続していこうと思います。制作は教区本部広報担当です。撮影場所は、大司教館の小聖堂です。(写真)なおYoutubeのアカウントは、配信ミサは関口教会のアカウントですが、週刊大司教は東京教区のアカウントになっています。(Youtubeのカトリック東京大司教区のアカウントをチャンネル登録くださるか、東京大司教区のホームページにリンクを掲載してあります)

 

なお、主の降誕、12月24日と25日には、大司教司式ミサの配信が予定されています。詳細は追ってお知らせします。

以下、第一回目のメッセージ原稿です。
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年間第32主日 メッセージ
2020年11月8日前晩

感染症が拡大し始めた初期の頃、毎日報道される感染者数に、恐れをなしたり安心してみたりと、一喜一憂を繰り返していました。少しでも感染者数が前日を上回っていたり、亡くなられた方があったという報道に接する度に、自らのいのちの危機を肌で感じて対策に奔走したものです。

いわゆる第一波がある程度落ち着いた後、東京では再び毎日の検査での陽性者数が200人を超えることが続き、メディアでも、またその報道に接するわたしたちも、数字の発表を固唾をのんで待っているような状態でした。

現在でも、東京では毎日午後3時になると、検査で陽性となった方々の人数が公表され、同時に亡くなられた方や重症の方の人数も公表されています。残念ながら、まだまだ感染が治まったとは言い難い数字が日々報道されていますが、何か当初のような興奮は冷めやり、まるで当たり前の数字であるかのように、報道でもそれを受け取るわたしたちでも、聞き流してしまうことが増えたように感じています。

災害への備えについてもそうですが、やはりわたしたちは、時間が経過するにつれて当初の強烈な印象を忘れてしまったり、または毎日継続する数字に慣れっこになってしまうものです。

本当は、何もない普段の時にこそ、緊急時を想定して備えておかなければ、いざというときには何も役に立たないことをわたしたちは経験上よく知っています。にもかかわらず、わたしたちの危機感は、実際の危機に直面しないことにはエンジンが始動しないのです。

新型コロナ感染症にしても、すでに専門家からは、この冬に備えなくてはならないという指摘があり、わたしたちも毎年冬のインフルエンザ流行の体験から、危険が迫っていることに体験的に気がつきながら、現時点での何か一段落したような雰囲気の中で制限を解除することにばかり気をとられ、次への備えがおろそかになりつつあるようにも感じます。

今日のマタイ福音は、将来を見越してしっかりと準備をしていた五人のおとめと、今現在のことにしか関心がなく、将来への備えを怠っていた五人のおとめが登場します。

イエスは、この話の締めくくりに、「だから目を覚ましていないさい。あなた方は、その日、そのときを知らないのだから」と述べておられます。

わたしたちは、常に目覚めているでしょうか。何もない普段にこそ、心を備えておかなければ、肝心のいざというときには、何も役に立たない。わたしたちのその常日頃からの備えは、何のためのどのような備えでしょうか。わたし自身が救われるためだけの自己研鑽の備えでしょうか。何を備えるべきなのでしょうか。

教皇フランシスコは、使徒的勧告「喜びに喜べ」に次のように記しておられました。

「もっとも困窮した人が味わう困難な状況において、教会はそれを理解し、慰め、平等に全体の中に参加できるよう特別に配慮すべきであり、石のような規則を押しつけてはなりません」

さらに「福音の持ついやしの力と光を差し出すよりも、福音を無理に吹き込もうとする人は、それを他者に投げつけるための石打ちの刑に変えてしまう」とまで言われます(49)

わたしたちの備えとは、福音をあかしして語り、また行動することであります。そのあかしは、「福音の持ついやしの力と光を差し出す」ことにあり、他者を石打ちの刑に処するために正しさを押しつけ断罪しようとする行動ではありません。

目覚めているわたしたちは、常に目を他者の必要に向け、神の愛といつくしみそのものである主イエスの福音をあかしするため、言葉と行いを持って、心を常に備えておくようにいたしましょう。