大司教

年間第二十一主日@大島教会

2022年08月30日

東京の大司教になったのは2017年の12月ですから、もう5年目に入っているのですけれども、やっと大島に来ることができました。もっとも、もっと早く来る予定はあったのですけれども、コロナになってしまったので移動するのが難しくなったというのが一番大きな理由ですけれども、浦野神父様から何度も何度も「そのうち時間を設定して」と言われていましたので、やっと今回時間をとることができました。

小さな教会共同体だと、多分皆さんもそう思っていると思うのですけれども、 わたしは東京に来る前に13年間新潟教区の司教をしていたんですね。新潟教区というのは、秋田県と山形県と新潟県なんですね。ある時、秋田県の北の方にある能代というところに教会があるのですけれども、そこの教会に行って、そこにはドイツ人のおじいちゃんの神父様が一人住んでいらっしゃったのですけれども、香部屋で着替えていたらですね、ドイツ人のそのおじいちゃんの神父様が、「司教様、今日は司教様が来てくださったので沢山の人が来てます!」って仰るんです。「ああ、沢山人が来てるんだなあ」と思って、一緒に、ミサが始まってお御堂に入っていったら、10人の人がいました。10人。「10人で沢山か」と思って、ミサが終わってから神父様に「神父さん、ミサが始まる前に『今日は沢山人がいる』って言いましたけれども、10人しかいませんでしたよ」って言ったら、神父様が「はい、いつもは3人しか来ません」と仰ったんですね。ですから、そういうところでずっと働いていましたので、実はこれ多いんです。

日本の教会は、どうしても東京の都心の教会のイメージで「教会、教会」って考えて、司教さんたちが集まって会議する時でも、「教会は」って言うと、だいたいイグナチオ教会とか関口とか大きい教会を頭に抱いてものを考えるので、あれがスタンダードだと思っているのですけれども、でも、実際には日本中色んなところに行くと、だいたい3人とか4人とか5人とかくらいしか来られないような教会が多いですので、地域的にも人口比からしても非常にマイノリティであるのは確かなんですね。ですから、そういう中で信仰を守っている教会共同体はこの大島だけではなくて、日本全国色々なところに、もっと小さな教会共同体の中で信仰を守り、そして信仰を伝えてつないでいる人たちが沢山おられるということは、どうか心のどこかに留めておいていただけたらいいかなあというふうに思っています。

もちろん、今、司祭の数が、召命がなかなか増えないですので、司祭になりたいという人がそんなに簡単には出てこないですし、例えば今日、「わたしは神父になりたいです」という青年が出てきても、この人が神父になるまでに7年かかるんですよね。なので、たとえ今年出てきても、彼が神父になるのは7年後の話なので、そう簡単に神父は増えないんですけれども、ですから、今いる神父さんたちでなんとかしていかなければならないというのは、これから先も続いていくと思います。そして、高齢の司祭たちが増えて引退してきていますから、その意味でですね、神父さんが来てミサをしないことには始まらないのは確かなんですけれども、そうではない時に、どういう形で信仰を信徒の方々が守っていくのかというのはとても大切な、これからの課題だと思うんですね。どういう形で信仰を伝えていくのか。

それで、今日の福音の中に「狭い戸口から入りなさい」という話が書いてあったんですよね。「狭い戸口から入りなさい」って、いったいどういうことなんだろうと。そして、その狭い戸口に入る前の質問がありますよね。「救われる者は少ないのでしょうか」という質問をする人がいたと。でもイエスは「ええ少ないですよ」とか「ええ多いですよ」という答えをしていないんですよね。「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」という質問に対して「狭い戸口から入りなさい」と、全然噛み合っていない質問と答えなのですけれども、これはいったい何でなんだろうと考えてみると、そもそも神様は「誰かだけは救いたい」とか「この人たちだけ救いたい」とか、そういうことではないんです。神は命を創った神ですので、自分が創造したすべての命を救いたいわけです。救うとは、聖書的なことから言えば、神が最初に命を創った、アダムとエヴァが生きていたあの楽園の状態、あれが神が理想の世界として創ったわけですけれども、そこから出ていちゃったのは人間の方なんですよね。罪を犯して出て行ったのは人間の方なので、あの最初の状況、つまり、すべての人が神のもとで一緒に生きているような状況をまた創り上げたい、そのためには、「あの人この人」ではなくて、すべての人がそこに救われて神とともに生きるようなことにしたいわけです。

つまり、「救われる者は少ないんですか、多いんですか」という質問は、イエスにとって全く意味がない質問なんですよね。救われる人はすべての人のはずなんです。すべての人を救いたい。でも実際には、救われないようにしているのは、神の側、つまり神が選択をしているのではなくて、人間の側が離れていってしまっている。どんどん人間の方が離れていって、神とは関係ないような生活をしていこうとしている。それがイエスの言う戸口の広いところで生きている人たちですよね。狭いところという言い方は、どう生きていくのか、この人生の中でわたしたち一人ひとりがどのようにして生きていくのかと。ですから、その後に「おまえのことなんか知らない」とかというやりとりの話がずっと書いてありますけれども、それは、その人生の中でどう人は生きてきたのか、どう生きていたのかと、つまり門の広い狭いは、神が広くしたり狭くしたりしているわけではなくて、人間の側が広くしたり狭くしたりしているんだと。だから、だだっ広い門は、入っては色んなところに行く門なわけですよね。だから、狭い門、つまり神に向かって一直線に向かっている門をくぐっていくようにするのは、それは あなたたち次第であると、自分たち次第なんだということを、この話の中でイエスは伝えていると思います。

それで、わたしたち一人ひとりは、どう生きていくのか、どのようにこの世界の中で生きていくのかということを考えなければならない。その務めが与えられていると思うんですね。そしてこれは夕べ(8月20日)の週刊大司教の中でも短く話をしていたと思いますけれども、教皇パウロ6世が第二バチカン公会議の後に「福音宣教」という文書を出したんですけれども、その中に「神は何らかの方法ですべての人を救うでしょう」と書いてあるんですね。つまり、わたしたち人間が何もしなくても、神は人間を愛しているので、何らかの方法で人間を救おうとするだろうと書いてあるんですね。

そうすると、じゃあ我々は何もしなくていいのかと、いわゆる万人救済論と言われている考え方を、「人間は何もしなくても神様が救ってくれるから大丈夫です」という言い方をする人たちもいるんですけれども、でも、そうじゃないよと。パウロ6世は、人間が何もしなかったら、それは神から離れていくことになる。そこでパウロ6世が書いているのは、でも福音を知っているわたしたち、イエスに従うことを決意したわたしたちが何もしない、特に福音を知らせないのであれば、特に間違った説だとか、恥だとか、恐れだとかによってこの福音を告げなければ、わたしたち自身の救いがあるかどうかは分かりませんよと。というふうに書いておられるんですね。つまりそれはどういうことかと言うと、それはわたしたちが福音を証しをする、福音を伝えていくような生き方をしていかなければ、どんどん神様から離れていくことになるんだと。だから、神が一生懸命「救おう、救おう、救おう」としているのに、人間の方からどんどん離れていくことになってしまうんだということを、 パウロ6世が「福音宣教」という文書に書いてらっしゃるんですね。

まさしく、わたしたち一人ひとりに与えられているのは、福音を証しをして生きていくということなのですけれども、ここからがものすごく難しいところで、じゃあどうするの、じゃあどうやってわたしたちは福音を証ししていくんだろうと。 福音を証しするというのは、別に街角に立って、のぼりを立てて、太鼓を叩いて、「皆さん教会に来てください」というようなことをすることではないんですよね。そうではなくて、毎日の生活の中の語ることばだとか、行いだとかいうことが、神の愛、神のいつくしみに根ざしているかどうかという問題ですよね。わたしたちの出会い、色んなところで色んな人たちに出会っていきます。その中でわたしたちは色んなことばを語っていきます。そして、色んな行いをしていきますけれども、そのことばと行いが、果たして神の愛、神のいつくしみに根ざしたものであるのかどうか、多分それが一番大きく問われていることだろうと思います。

その意味で、何か 聖書の知識を蓄えてそれを皆に語るとか、そういうことではなくて、わたしたちの日々の生活が、神がわたしたちに向けている愛といつくしみを具体化しているものであるのかどうかというのを、常に自分に問いかけて、そうなるように努力をしていきたいと思います。わたしたち自身が、神に向かって進むこの狭い戸口を自分たちで創り上げることができるように努力をしていきたいと思います。