大司教
2022年平和旬間:平和を願うミサ@東京カテドラル
2022年08月10日
2022年の東京教区平和旬間は、感染症対策のため、いわゆるイベントを行うことができない状況となっています。特に教区としての平和を願いミサを予定していた関口教会では、主任司祭を含めた司祭・助祭団などに検査陽性があり、予定していた8月7日は、ミサの公開が中止となりました。
とはいえ、「ミサの公開が中止」というのは、「ミサが中止」なわけではなく、司祭がささげるミサに会衆を入れないことを意味していますので、8月7日は、関口教会で非公開の形で平和を願いミサを捧げました。
すでに触れているように、昨今の国内外の状況で、平和を祈らなくてはならない課題は多々ありますし、そもそも平和旬間が設けられたきっかけも、過去を振り返り将来へ責任を持つことを呼びかけられた、教皇ヨハネ・パウロ二世の広島アピールにあるのですから、戦争の記憶を振り返りそこから学ぶことも忘れるわけにはいきません。その中で、東京教区では、そういったことを踏まえた上で、ともすれば新しく起こる悲劇の陰で忘れられていくことの多い課題に目を向け、特に姉妹教会であるミャンマーのために祈り続けることを選択しました。ロシアによるウクライナ侵攻や国内での暗殺事件などなど、暴力が支配するかのようなこの世界には、平和の課題が山積しています。その中で、ミャンマーを忘れないでいたいと思います。
なぜミャンマーなのかという問いかけをいくつかいただいています。一番の理由は、幾度も繰り返していますが、ミャンマーの教会が東京教区の姉妹教会だからです。東京教区が戦後にケルン教区から受けた様々な援助へのお返しとして、今度はミャンマーへの支援が始まりました。その関わりを、わたしたちは忘れずにいたいと思います。
そしてこの一年、クーデター以降、様々な機会にミャンマーの平和のために祈ってきました。残念ながら状況は混迷を極めており、平和は乱されたままです。その中で、わたしたちの兄弟姉妹が、困難に直面しています。それを忘れるわけには行きません。すでに教区のホームページにマンダレーのマルコ大司教様のお手紙が掲載されていますし、そのほかの教区からもいただいていますが、今回のわたしたちの平和旬間の祈りに対して、ミャンマーの教会からはお返事のメッセージをいただいています。そこには、この平和旬間にあわせて、ミャンマーの教会でも、平和旬間に、一緒に平和のために祈ると記されています。この目に見える繋がりを、大切にしたいと思います。(上の写真は2020年2月、マンダレーでマルコ大司教様と)
以下、8月7日午前10時からカテドラルでささげた平和を願うミサの説教原稿です。なおこのミサは、私と天本師以外では、聖歌隊を務めたイエスのカリタス会の方々、構内におられるシスター方と、配信スタッフのみが参加しました。
年間第19主日(平和を願うミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年8月7日
わたしたちが生きているこの世界は、まるで暴力に支配されているかのようであります。
2020年2月頃から、感染症の状況が世界中を巻き込んで、不安の渦の中でわたしたちから希望を奪い去りました。この状況は多少の改善があったかと思うと再び悪化することを繰り返し、そのたび事に、一体いつまでこのようなことが続くのかという焦燥感がわたしたちを包み込み、その焦燥感がもたらす先の見えない不安が、なおいっそうわたしたちの心を荒れ果てた地におけるすさみへと招き入れています。その中でわたしたちは、いのちを守る道を見いだそうと努めてきました。
この2年以上にわたる感染症の脅威の中で教皇フランシスコは、いのちを守り、その危機に立ち向かうには連帯が不可欠だと強調してきました。この危機的状況から、感染症が広がる以前よりももっとよい状態で抜け出すには、「調和のうちに結ばれた多様性と連帯」が不可欠だと呼びかけてきました。互いの違いを受け入れ、支え合い、連帯することが、いのちを守るのだと強調されてきました。
しかしながら、特にこの半年の間、わたしたちの眼前で展開したのは、調和でも多様性でも連帯でもなく、対立と排除と暴虐でした。この不安な状況の中で、互いに手を取り合って支え合い、いのちを守るために連帯しなくてはならないことが明白であるにもかかわらず、ミャンマーではクーデターが起こりました。ウクライナではロシアの侵攻によって戦争が始まりました。暴力によっていのちを奪い取るような理不尽な事件も起こりました。
1981年に日本を訪問された教皇聖ヨハネ・パウロ2世は、広島での「平和アピール」で、「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です」と、平和を呼びかけられました。その言葉に触発されて、日本の教会は、戦争を振り返り、平和を思うとき、平和は単なる願望ではなく具体的な行動が必要であることを心に刻むために、この10日間の平和旬間を定めました。
「戦争は人間のしわざ」であるからこそ、その対極にある平和を生み出すのは、やはり「人間のしわざ」であるはずです。「戦争は人間の生命の破壊」であるからこそ、わたしたちは神からの賜物であるいのちを守り抜くために、平和を生み出さなくてはなりません。「戦争は死」であるからこそ、わたしたちいのちを生きている者は、戦争を止めさせなくてはなりません。
ヨハネ・パウロ2世は広島で、「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことである」とも言われました。わたしたちは、過去の歴史を振り返りながら、いま選び取るべき道を見出し、将来に向けて責任ある行動を取りたいと思います。平和は、どこからか降ってくるお恵みではなくて、わたしたち自身はこの地上において具体化するべきものです。
暴力が世界を支配するかのような状況が続くとき、わたしたちはどうしても暴力を止めるために暴力を使うことを肯定するような気持ちになってしまいます。しかし暴力の結末は死であります。わたしたちはその事実を、先の参議院選挙期間中に目の当たりにしました。
いのちに対する暴力を働くことによって、自らの思いを遂げようとすることは、いのちを創造された神への挑戦です。神がいのちを与えられたと信じるわたしたちキリスト者にとって、いのちはその始まりから終わりまで守られなくてはならない神からの尊厳ある賜物です。
多くの人が自由のうちにいのちをより良く生きようとするとき、そこに立場の違いや考えの違い、生きる道の違いがあることは当然です。その違いを認め、一人ひとりのいのちがより十全にその与えられた恵みを生きる社会を実現するのが、わたしたち宗教者の務めです。宗教はいのちを生かす道を切り開き、共通善を具体化し、平和を実現する道でなくてはなりません。
わたしたちの姉妹教会であるミャンマーの方々は、2021年2月1日に発生したクーデター以降、国情は安定せず、人々とともに平和を求めて立ち上がったカトリック教会に対して、暴力的な攻撃も行われ、さらに先日は民主化運動の活動家に死刑が執行されました。暴力による支配はいのちを生かすことはなく、いのちを奪うのであって、それはいのちの与え主である神への挑戦です。
様々な大きな事件が起こる度に、世界の関心は移り変わっていきます。その背後に、苦しみのうちに忘れ去られる多くの人がいます。いま世界には、平和を破壊するような状況が多々存在し、祈りを必要としています。だからこそわたしたちは、姉妹教会の方々を忘れることなく、今年の平和旬間でも、ミャンマーの方々のために祈り続けたいと思います。
ルカ福音は、主人の帰りを待つ間、常に目覚めて準備している僕の話を記します。「あなた方も用意していなさい。人の子は思いがけないときに来るからである」
この朗読箇所の直前には、「自分の持ち物を売り払って施しなさい。すり切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい」と記されています。すなわちイエスが求めているのは、その再臨の時まで、わたしたちがどのように生きるのかであって、常に用意をするとは、単に準備を整えて控えていることではなくて、積極的に行動することを意味しています。
わたしたちは、天に富を積むために、神の意志をこの世界で実現する行動を積極的に取らなくてはなりません。神のいつくしみを具体化したのはイエスご自身ですが、そのイエスに従う者として、イエスの言葉と行いに倣うのであれば、当然わたしたちの言葉と行いも、神のいつくしみを具体化したものになるはずです。
神の望まれている世界の実現は、すなわち神の定めた秩序の具体化に他なりません。教皇ヨハネ二十三世は、「地上の平和」の冒頭に、こう記しています。
「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」(「地上の平和」1)
わたしたちは、神の秩序が確立されるために、常に尽くしていきたいと思います。
わたしたちが語る平和は、単に戦争や紛争がない状態なのではなく、神が望まれる世界が実現すること、すなわち神の秩序が支配する世界の実現です。わたしたちは日々、主の祈りにおいて、「御国が来ますように」と祈りますが、それこそは神の平和の実現への希求の祈りです。求めて祈るだけではなく、わたしたちがそのために働かなくてはなりません。その意味で福音宣教は平和の実現でもあります。
今年の復活祭メッセージで、教皇フランシスコはこう呼びかけました。
「どうか、戦争に慣れてしまわないでください。平和を希求することに積極的にかかわりましょう。バルコニーから、街角から、平和を叫びましょう。「平和を!」と。各国の指導者たちが、人々の平和への願いに耳を傾けてくれますように」(2022年4月17日)。
常に目を覚まして、神の秩序の確立のために、平和の確立のために、「平和を」と叫び続け、また働き続けましょう。