菊地大司教

    週刊大司教第七十七回:復活節第六主日

    復活節第六主日です。

    復活節第六主日は、世界広報の日と定められており、この日のために教皇様のメッセージも発表されています。第二バチカン公会議の「広報メディアに関する教令」に基づき、現代社会におけるメディアのあり方を問いかけ、福音宣教との関わりを考察するために始まったこの世界広報の日ですが、第56回目となる今年の世界広報の日のテーマは、「心の耳で聴く」とされています。こちらのリンクからメッセージ全文をお読みいただけます

    自らの主張を言いっぱなしで聞くことが欠如していると指摘する教皇様は、次のようにメッセージに記します。

    「ですから聴くことは、対話にも正しいコミュニケーションにも、いちばんで不可欠な要素です。まず聴くということをしなければコミュニケーションは成立しませんし、聴く力がなければ、優れた報道はできません。確実で良識ある包括的な情報を提供するには、長期にわたり耳を傾けることが必要です。ルポとして何らかの出来事を報告したり、現状を描いたりするには、耳を傾ける技術の獲得と、自身の考えを変えて当初の仮説を修正することもあるとの覚悟が必要です」

    その上で、「兄弟に耳を傾けることのできない人は、いずれ、神に耳を傾けることもできなくなるでしょう」と、教皇様は指摘されています。

    じっくりと耳を傾ける事よりも、反射的に攻撃的な言説に走ることがしばしば見られる現代社会にあって、心の耳を澄ませることの大切さをあらためて心に刻みたいと思います。

    以下、21日午後6時配信の、週刊大司教第77回目、復活節第六主日のメッセージ原稿です。
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    復活節第六主日
    週刊大司教第77回
    2022年5月22日前晩

    教会は聖霊に導かれています。

    ヨハネ福音は、最後の晩餐でイエスが弟子たちに残した言葉を記しています。主イエスは、「わたしは去って行くが、また、あなた方のところへ戻って来る」という言葉を具体的に示すために、弟子たちの上に聖霊の導きがあることを約束します。聖霊の働きを通じて、神は教会とともに歩みを続けておられます。教会は、常に聖霊に満たされ、聖霊による導きを受けている存在です。その教会を通じて、わたしたちも聖霊の導きのうちに時を歩んでいます。

    第二バチカン公会議の現代世界憲章は、「神の民は、世界を満たす主の霊によって自分が導かれていることを信じ、この信仰に基づいて、現代の人々と分かち合っている出来事、欲求、願望の中に、神の現存あるいは神の計画の真のしるしを見分けようとつとめる(11)」と記します。すなわち、教会は社会の現実から切り離された隠れ家なのではなく、聖霊の導きのうちに積極的に社会の現実を識別し、神の計画を見極め、その実現のために出向いていく存在であります。

    使徒言行録は、初代教会にあって意見の対立が生じたときに、パウロやバルナバがエルサレムにおもむき、使徒や長老と協議をしたことを記しています。その協議の結果を伝える手紙には、「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなた方に重荷を負わせないことに決めました」という言葉が記されています。教会が普遍教会として、異邦人に対して、すなわち全世界に向けて福音を告げる存在となることを決定づけたこのエルサレムでの話し合いは、聖霊による導きを識別し、正しい道を見いだすために行われたことが示されています。聖霊は時として、教会に大きな変革の道を示すこともあると、この使徒言行録の話はわたしたちに示唆しています。

    わたしたちは常に、ともに歩んでくださる神の聖霊の導きに耳を傾け、その示す方向性を識別する努力を続けなくてはなりません。わたしたちの知見があたかも全てであるかのように思い込むなら、わたしたちは聖霊の導きに背を向け、神の声に耳を閉ざしてしまうことになりかねません。

    復活節第六主日は、世界広報の日と定められています。第二バチカン公会議の「広報メディアに関する教令」は、「(広報)メディアが正しく活用されるなら、人類に大きく貢献することを熟知している。それらが人々を憩わせ、精神を富ませ、また神の国をのべ伝え、堅固なものとするために大いに貢献する」と、メディアの福音宣教に果たす役割を高く評価しています。同時に、メディアに携わる人々に対して、「人類社会の正しい利益に向かってのみ(広報メディア)を方向付けるべく努力するよう」呼びかけます。インターネットが普及した現代、この呼びかけは一部の専門家だけでなく、すべての人に向けられています。

    今年、第56回めとなる「世界広報の日」の教皇メッセージ、「心の耳で聴く」において、教皇フランシスコは、「聴くことは、謙遜な神の姿と相通じるところがあります。神は、語ることによって人間をご自分の似姿として造り、聴くことによって人間をご自分の対話の相手として認めます。・・・主は、人間が余すところなくあるべき姿になれるようにと、人間を愛の契約にはっきりと招いておられます。それは、他者に耳を傾け、受け入れ、譲る力を備えた神の似姿、かたどりとなることです。聴くとは、本質的には愛の次元なのです」と記しています。

    わたしたちは創造主である神ご自身がそうであるように、他者に耳を傾けることが必要です。そして神ご自身の声に耳を傾けるために、心の耳を澄ませることが不可欠です。

    東京大司教タルチシオ菊地功