菊地大司教

    週刊大司教第七十五回:復活節第四主日

    復活節第四主日です。復活節第四主日は、毎年朗読される福音から「善き牧者の主日」とも呼ばれ、世界召命祈願日と定められています。通常であれば、この主日の午後2時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂において、教区内で養成を受けている教区や修道会の神学生、修道会の志願者などに参加を呼びかけ、教区の一粒会と一緒に、召命祈願ミサを行うのですが、残念ながら今年もまた、感染症の状況を勘案して、中止とさせていただきました。

    どうかこの主日に、司祭、そして修道者の召命のためにお祈りくださるようにお願いします。

    また同時に、召命を語ることは、キリスト者の召命、すなわち信徒の召命についても考えるときです。一人ひとりに呼びかけ、福音をそれぞれの場で、それぞれの方法であかしするようにと招いておられる主に、どのように応えていくか。黙想する日曜といたしましょう。

    例年、教皇様はこの日にあわせてメッセージを発表されます。今年は発表が大幅に遅れ、つい2・3日前の発表となりました。そのため、中央協議会での翻訳は間に合いません(日本では連休中の発表でしたので)。今年のメッセージのテーマは「Called to build a Human Family(人類家族を造るために呼ばれて)」となっています。翻訳の発表までは今しばらくお待ちください。

    メッセージで教皇様は、教会がいまともに歩んでいるシノドスの道に触れ、まずはじめに教会全体が福音宣教の主役となるように召されていると強調されます。すなわち、召命は特定の人、特に聖職者の召命だけを語るのではなく、それぞれの場でどのように福音を宣教する主役となるのかを考える、教会全体への召命であることを指摘されています。

    その上で、教会全体が、分断された人類を再び一致させ神と和解させるというキリストの使命にともに与るように招かれていると強調されます。

    もちろん司祭や修道者の召命が増えるようにと、その道を歩み出す勇気が呼ばれている人に与えられるようにとお祈りいただきたいのですが、同時にわたしたち一人ひとりが、また教会共同体が、神からの呼びかけに応え、与えられたタレントを共通善のために十分に生かすために、互いに何ができるのだろうか。教皇様の呼びかけに耳を傾け、この主日に、お祈りください。

    なお教皇様はこの数日、様々な要因から歩くことや立っていることに困難を感じておられます。どうか教皇様の健康のためにも、お祈り下さい。

    以下、7日午後6時に配信された週刊大司教第七十五回、復活節第四主日メッセージ原稿です。
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    復活節第四主日C
    週刊大司教第75回
    2022年5月8日前晩

    復活節第四主日は、世界召命祈願日と定められています。教皇パウロ六世によって、1964年に制定されました。今日は特に、司祭・修道者の召命のために、お祈りをお願いいたします。

    第二バチカン公会議の会期中、1964年4月11日のラジオメッセージで、教皇パウロ六世は、こう述べておられます。

    「十分な数の司祭を確保するという問題は、すべての信者にすぐさま影響を与えます。それは、彼らがキリスト教社会の宗教的な未来をそのことに託しているためだけではありません。この問題は、小教区や教区の各共同体の信仰と愛の力を正確かつ如実に表す指標であると同時に、キリスト者の家庭の道徳的な健全性のしるしだからです。司祭職と奉献生活への召命が多く見られるところではどこでも、人々は福音を豊かに生きています」

    すなわち召命の問題は、組織としての将来的存続の課題にとどまるのではなくて、福音が豊かに生きられているかどうかの指標でもあるというのです。これはわたしたちにとっては、厳しい指摘です。国内には修道会立も含めていくつもの神学院があり、司祭養成が行われてきました。さらに各修道会では国内外各所で志願者の養成が行われてきました。しかし近年、司祭や修道者を志願する信徒の数は減少傾向にあり、例えば東京教区でも、司祭を目指す神学生は、現時点では四名しかおりません。

    一人の神学生が司祭になるまで養成するためには、最低でも7年が必要です。将来の教区組織維持の観点からも厳しいものがありますし、教皇パウロ六世の指摘されるように、それが福音が豊かに生きられているかの指標であるとするなら、まさしくその数字自体が厳しい指摘となっています。まずは司祭・修道者の召命のために祈りましょう。同時に、わたしたち教会共同体の責務として、さらに福音に生きる姿勢を追い求め、福音をあかしして参りましょう。

    実際、召命を語ることは、ひとり司祭・修道者の召命を語ることにとどまるのではなく、すべてのキリスト者に対する召命を語ることでもあります。司祭・修道者の召命があるように、信徒の召命もあることは、幾たびも繰り返されてきたところです。

    第二バチカン公会議の教会憲章に、こう記されています。

    「信徒に固有の召命は、現世的なことがらに従事し、それらを神に従って秩序づけながら神の国を探し求めることである。自分自身の務めを果たしながら、福音の精神に導かれて、世の聖化のために、あたかもパン種のように内部から働きかけるためである」(31)

    いまほど、司祭・修道者の召命に加えて、信徒の召命を深める必要があるときはありません。牧者であるキリストの声を、すべての人に届けるためには、キリスト者の働きが必要です。「自分自身の務めを」社会の中で果たしながら、「パン種のように内部から働きかける」召命を生きる人が必要です。「福音の精神に導かれて、世の聖化」のために召命を生きる人が必要です。

    召命の促進は、特別な人の固有の務めではなく、教会共同体全体の責務であります。

    ヨハネ福音は、羊飼いと羊のたとえを記しています。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」と主は言われます。わたしたちは常にわたしたちと共にいてくださり、先頭に立ってわたしたちを導いてくださる羊飼いとしての主の声を聞き分けているでしょうか。それとも、もっと他の声に気を取られて、そちらへと足を向けているのでしょうか。それぞれに与えられた召命を理解し、その召命に忠実に生きるとき、わたしたちは羊飼いの声を聞き分ける羊となることができます。

    東京大司教タルチシオ菊地功