菊地大司教

    週刊大司教第七十四回:復活節第三主日

    今年の復活節第三主日は、5月最初の日となりました。5月と言えば、聖母の月です。

    1965年、特に東西冷戦が深刻さを増し、ベトナムでの軍事的緊張は東西の代理戦争の様相を帯びていた時期に、世界平和のために聖母の取り次ぎを祈ってほしいと、教皇パウロ六世は呼びかけました。回勅「メンセ・マイオ」で、教皇パウロ六世は5月にロザリオの祈りをささげる伝統について、「五月は、より頻繁で熱心な祈りのための力強い励ましであり、わたしたちの願いがよりたやすくマリアのあわれみ深い心に近づく道を見いだすときです」と教会が大切にしてきた聖母への祈りの重要性を指摘されました。その上で教皇は、「教会の必要が求めるときに、あるいは人類が何か重大な危機に脅かされているときにはいつでも、キリスト者に公の祈りをささげるよう勧めるためこのマリアにささげげられた月を選ぶのは、わたしの先任者たちに好まれた習慣でした」と述べています。(3)

    主キリストのあがないの業の第1の協力者は、十字架の傍らに立ち、イエスの苦しみを共にされた聖母マリアです。聖母の人生は、主の思いと心をあわせ、主とともに歩む人生です。それだからこそ、聖母の取り次ぎには力があります。この5月を聖母を通じて私たちが主イエスに達することが出来るように、その取り次ぎのうちに、あがない主への信仰を深めるときにしたいと思います。特に、感染症や戦争など、世界的規模でいのちが危機に直面するような事態に直面するいま、一日も早い終息と平安を求めて、聖母にわたしたちの祈りを委ね、その取り次ぎを祈ることは、教会の伝統です。

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    以下、4月30日午後6時配信の、週刊大司教第74回、復活節第三主日のメッセージ原稿です。(写真上はガリラヤ湖畔のペトロ首位権教会にある、主イエスによるペトロの選び。「わたしの羊の世話をしなさい」と銘板に刻まれています)
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    復活節第三主日
    週刊大司教第74回
    2022年5月1日前晩

    復活された主イエスをあかしする弟子たちの言葉と行いは、どれほど力強いものだったのでしょう。その影響力に恐れをなした大祭司たちは、ペトロをはじめ弟子たちを最高法院に引いていき尋問し、黙らせようと試みます。最後の晩餐の頃の弟子たちであれば、あっという間にその脅しに負けて、口を閉じたのかも知れません。しかし使徒言行録が記している弟子たちは、大きく変わっていました。激しくののしられ脅されても、「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」最高法院を出て行ったと記されています。この大きな生き方の転換には、復活の主との出会いがありました。

    イエスが捕らえられたあと、三度にわたってイエスを知らないと否んだペトロに対して、復活されたイエスは、同じく三度にわたって、「私を愛しているか」と尋ねたことを、ヨハネ福音は記しています。あの晩の苦い思い出を心に抱くペトロは、しかし三度「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と応えます。

    よく知られていることですが、愛するという行為にイエスはアガペーを使います。それに対してペトロはフィリアを使って応えます。アガペーは命をかけて相手のために身をささげる愛であり、フィリアは友愛です。命をかけてわたしの愛に生きるのかというイエスの重ねての問いかけに、ペトロは友愛的な感情、すなわち自分を中心に据えた心持ちを持って応えます。しかしそれではイエスが弟子として従うものに求める生き方、つまり無私の愛には結びつきません。イエスは、自分を捨てて、自分の十字架を背負って従うことを求めていました。それを具体的に意味するアガペーの愛をペトロは理解できていません。そこでイエスは三度目に、ペトロが理解するフィリアの愛を使って、重ねて尋ねます。

    ここでペトロは始めてイエスの願いを心に感じ、「主よあなたは何もかもご存じです」と応えています。やっと、愛する行動の中心はペトロ自身からイエスに移ります。ペトロはイエスに身を委ねることで、始めてイエスのように生きることが可能となりました。

    イエスに従うものの人生の中心にあるのは、自分ではなくてイエスご自身です。イエスご自身に完全に身を委ねることができたとき、つまりわたしたちが自分の弱さを認めたときに、初めて私を通じて福音があかしされるのです。福音のあかしは、私が中心になっているときには実現しません。伝えるのは私の思いではなくて、私を生かしてくださる主ご自身です。

    今年わたしたちはウクライナへのロシアの武力攻撃という事態に直面し、戦争の危機を肌で感じる中で、教皇様と一致して、全人類を、そして特にロシアとウクライナを聖母の汚れなきみこころに奉献しました。

    聖母への奉献という行為は、本質的に聖母を通じてイエスに奉献するという行為です。わたしたちは完全に聖なる方にわたしたちを「委ね」て、それでよしとするのではなく、委ねることで完全に聖なる方がわたしたちを聖なるものとしてくださるように決意をするのです。つまり、ただ恵みを受けるだけの受動態ではなくて、わたしたちが能動的に聖なるものとなるために行動することが不可欠です。ですから、奉献の祈りをしたから、あとは自動的に聖母が平和を与えてくださるのを待つと言うことではなくて、奉献の祈りをしたからこそ、完全に聖なる方に一致するための行動を起こすことが必要です。復活の主との出会いは、主との一致のうちに福音をあかしする行動へと、わたしたちを招いています。イエスを心に抱いて、一歩前進する信仰に生きましょう。

    東京大司教タルチシオ菊地功