菊地大司教

    週刊大司教第七十二回:受難の主日

    聖週間が始まります。4月10日の主日は、受難の主日(枝の主日)であります。

    聖週間は、関口教会で、受難の主日午前10時、聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日(復活徹夜祭)の三日間のミサと典礼が午後7時、そして復活の主日は午前10時が、大司教司式の典礼です。すべてのミサが、関口教会のYouTubeチャンネルから配信されます。

    また聖木曜日午前10時半からは、聖香油ミサが行われ、その中で神学生の認定式や祭壇奉仕者選任式が行われますが、現在の状況に鑑み、残念ですが非公開で行います

    なお4月16日の聖土曜日は、午後7時から復活徹夜祭が配信されますので、「週刊大司教」は一回分お休みとさせていただき、4月23日午後6時が次回となります。

    すでに旧聞となりましたが、4月6日、教皇様は、浜口司教様が帰天されてから空位が続いていた大分教区の新しい司教として、中央協議会の事務局長である福岡教区のスルピス森山信三師を任命されました。森山被選司教様は1959年1月生まれですから、いわゆる学年的には私と一緒です。スルピスという霊名は、私のタルチシオ以上に、あまり耳にしない聖人名です。これについて、森山被選司教様ご自身が、インタビューに答えておられる映像が、中央協議会から公開されていますので、一度ご覧ください。

    森山被選司教様、大分教区の皆様、本当におめでとうございます。新しい牧者とともに、祝福されたさらなる一歩を踏み出されますように。

    特段の事情がない限り、司教叙階式は任命から3ヶ月以内に行うことと定められていますので、程なく日程は決まることでしょう。司教団としては、新年度が始まったばかりですし、各教区の司祭人事も変わったばかりですので、森山師の後任の中央協議会事務局長選任が容易ではないと感じています。

    とはいえ業務は遂行しなくてはなりませんから、4月7日の法人役員会で、現在、中央協の法人事務部長などを務めてくださっている東京教区の川口薫神父様に、当分の間、事務局長代行をお願いすることにいたしました。またこの4月から、任期満了で離任したイグナシオ神父様に代わり、広島教区の原田豊己神父様が社会福音化推進部部長として赴任されました。川口神父様、原田神父様、よろしくお願いします。

    以下、9日午後6時配信の、週刊大司教第72回、受難の主日のメッセージ原稿です。
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    受難の主日
    週刊大司教第72回
    2022年4月10日前晩

    愛する家族のひとりが、目の前でいのちの危機に直面しているならば、多くの人は平然としてはおられず、どうにかして助けたいと思うのではないでしょうか。

    世界がいま平和な解決を祈るウクライナへのロシアによる武力侵攻や、東京教区が姉妹教会として平和を祈り続けているミャンマー。そのただ中でいのちの危機に直面する一人ひとりは、すべからく神ご自身が賜物としていのちを与えられた、神が愛する存在です。いのちの与え主である神が平然としておられるはずがありません。わたしたちに、いのちを守るために祈り行動するようにと、神は求めておられると確信します。

    多くの人が犠牲になる戦争のような事態であっても、それが遙か彼方で発生すると、どういうわけか、あれやこれやと理屈を並べて、まるで人ごとのように眺めてしまいます。その傍観者のような態度、すなわち無関心は、いのちを奪います。神のひとり子を十字架につけて殺した、あの大勢の群衆のような、傍観者としての「無関心」であります。

    歓声を上げてイエスをエルサレムに迎え入れた群衆は、その数日後に、「十字架につけろ」とイエスをののしり、十字架の死へと追いやります。起こっている出来事を傍観者として無責任に眺める群衆は、そのときの感情に支配され、周囲の雰囲気に流されていきます。

    イザヤは、絶望的とでもいう状況の中で苦しみとともに生き抜こうとするイエスの姿を、苦難のしもべの姿として預言書に書き記しています。

    主なる神が「弟子としての舌」を与え、「朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにして」くださったがために、「わたしは逆らわず、退かなかった」。苦しみに直面したイエスの御父に対する従順と不退転の決意を、イザヤはそう記します。

    パウロは、イエスがそのように、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」であったからこそ、「神はキリストを高く上げ、あらゆる名に勝る名をお与えに」なったのだと記します。

    神が与えられた「弟子としての舌」は、「疲れた人を励ますように」語るための舌であると、イザヤは記します。その舌から語られる言葉は、いのちを生かす言葉であり、生きる希望を生み出す言葉であり、励まし支える言葉であります。

    加えて、その舌が語る言葉は、自分の知識に基づく言葉ではなく、「朝ごとに」呼び覚まされる主の言葉に耳を傾け、それを心に刻んで従おうと決意する、神ご自身の言葉であります。

    人間の知識や感情や思いに左右される言葉は、イエスを十字架の死へと追いやった傍観者である群衆を扇動し、無関心で人ごとのような言葉をもって、いのちを危機に追いやり、いのちを奪います。神のことばに耳を傾け、それを心に刻み、不退転の決意をもってそれに従い、それを語り、それに生きる主イエスの言葉は、互いを支え、傷を癒やし、希望の光をともす、いのちを生かす言葉そのものであります。苦しみのただ中から語られる、いのちの言葉です。

    傍観者としての無関心が支配する現代社会にあって、わたしたちはイエスご自身に倣い、希望に満ちたいのちの言葉を語る者でありたいと思います。弟子の舌をもって語る者でありたいと思います。無責任に放言するものではなく、苦しみのただ中にいるいのちに心をあわせ、いのちを守る言葉を語る者でありたいと思います。

    東京大司教タルチシオ菊地功