菊地大司教

    週刊大司教第七十回:四旬節第四主日

    Sanktp2013a-2

    四旬節も第四主日となりました。

    復活節に洗礼を受けられる準備をされている皆さんには、あと三週間ほどの準備期間です。特に成人洗礼の皆さんには、洗礼と初聖体と堅信を一度に受けられることが通常ですので、そうなると、この受洗の機会のあとに、学びを深めたり、祈りを深めることから離れてしまうこともあり得ます。実際、毎年に洗礼を受けたすべての人が日曜日に教会に来ていたとしたら、教会はあっという間に人であふれてしまうはずなのですが、実際にはそうなっていない。もちろん同じような課題は幼児洗礼の方々や、長年信徒である方々にも、何らかのきっかけで教会から足が遠のいてしまうことはあります。そういったことも含めて、わたしたちキリスト信者のすべてには、洗礼後の継続した信仰養成が、重要な意味をもっています。わたしたちは洗礼を受けた後も、生涯をかけてキリストについて学び続けたいと思いますし、神との祈りにおける対話を続け深めたいと思います。また「二人三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである(マタイ18:20)と約束された主に信頼し、教会共同体における交わりを深め続けたいと思います。(写真はエルミタージュ美術館のレンブラントの放蕩息子の帰還)

    教皇様のロシアとウクライナの聖母の汚れなきみこころへの奉献に合わせて、この3月25日または26日に祈りをささげてくださった皆様に感謝いたします。まだ状況は不確実です。聖母の取り次ぎによって神の平和が確立されますように、これからもお祈りをお願いいたします。

    以下、本日午後6時配信の週刊大司教第70回、四旬節第四主日のメッセージ原稿です。
    ※印刷用はこちら
    ※ふりがなつきはこちら

    四旬節第四主日
    週刊大司教第70回
    2022年3月27日前晩

    ルカ福音は、よく知られている「放蕩息子」のたとえ話を記しています。この物語には、兄弟とその父親という三名が、主な登場人物として描かれています。

    2016年の「いつくしみの特別聖年」のあいだ、教皇フランシスコはしばしば父である神のあわれみ深さを語り、そのいつくしみの姿勢に倣うようにと勧められました。その年の5月11日の一般謁見で、この物語に触れこう語っています。

    「父親のいつくしみは満ちあふれるほど豊かで無条件です。その優しさは、息子が話す前に示されています。・・・(弟が自らの過ちを認める)ことばは、父親のゆるしの前に崩れ去ります。父親の抱擁と接吻により、彼は何があってもつねに自分は息子だと思われていたと悟ります」

    その上で教皇は、「父親の論理はいつくしみの論理です。弟は自分の罪のために罰を受けて当然だと思っていました。兄は、自分の奉仕の報いを期待していました。二人は互いに話し合うこともなく、異なる生き方をしていましたが、両者ともイエスとは違う論理のもとに考えています」

    「傷をいやし、和解とゆるしの道をつねに差し出す準備のある、野戦病院となること(東京ドームミサ説教)」を教会共同体に求める教皇フランシスコは、しばしば神のいつくしみの深さとそれに倣うことをわたしたちに説いておられます。

    同時に教皇フランシスコは、特に現在の感染症の状況になってからそれが顕著ですが、わたしたちが世界的規模で「連帯」することの必要性を強調されます。「放蕩息子」のたとえ話も、単に父親の限りない優しさを記しているだけではなく、その優しさが、実のところ「連帯」に基づいていることを明示しています。

    弟を迎え入れた父親は、「いなくなっていたのに見つかったからだ」という言葉の前に、「死んでいたのに生き返り」と付け加えています。弟は何に死んでいたのでしょうか。

    弟を迎え入れた父親に対して不平を言う兄に、父は「お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ」と告げています。

    すなわち、ここで家族として描かれている「共同体」の絆から離れていることは、いのちを生きていたとしても「死んでいる」ことであって、その絆に立ち返ったからこそ弟は「死んでいたのに生き返り」と父親が語っているのです。共同体の絆、すなわち連帯の絆に結ばれて、人はいのちを十全に生きることができるのです。父親の優しさは、共同体の連帯の絆に立ち返らせようとする愛の心に基づいています。

    「連帯」の意味についてしばしば語られた教皇ヨハネ・パウロ二世は、回勅「真の開発とは」にこう記しています。

    「(連帯とは)、至るところに存在する無数の人々の不幸、災いに対するあいまいな同情の念でもなければ、浅薄な形ばかりの悲痛の思いでもありません。むしろそれは、確固とした決意であり、・・・共通善のために働くべきであるとする堅固な決断なのです(「真の開発とは」38)」

    四旬節にあたって、わたしたちは「愛の業」に生きるようにと招かれます。その一助として、カリタスジャパンなどを通じた援助事業に資するための献金をするようにと勧められます。そういった行動は、わたしたちがキリスト者として優しい人だからそうするのではありません。それは、あの父親に倣い、連帯を実現しようとする、一人ひとりの信仰における決断に基づく行動です。

    東京大司教タルチシオ菊地功